フィンが泣き止むまで、少年はずっと優しく宥めてくれた。
泣きやんだあとも、腫れた顔を冷やすフィンの代わりに水を汲んでくれた。
この厚意に、フィンの頭は自然に下がった。
「ありがとう……」
胸の奥から、感情がじわりとにじみ出る。嬉しいというこの感情は、怒りや哀しみ以上に久々のものだ。
体の内側から広がる仄かな暖かさにフィンの表情が緩む。その様子に、少年は微笑んだ。
「いえいえ、どういたしまして。私はスイ。あなたは?」
少年は目線をあわせて聞いてくる。しかしフィンは怪訝な表情を浮かべてしまった。
「すい?」
ノース・トユでも、隣国のリュートリアでも聞かない雰囲気の名前だった。もう一つの隣国、ディスカの名前なのだろうか。
他人の名前を問い返すという、礼を失した行いをしてしまったフィンだったが、それに気を悪くした様子も無く少年は言葉を続けた。
「珍しい響ですよね。古い言葉で、緑の羽の意味らしいです」
古い言葉と言うのは、ノース・トユにかつて数千あったと言われる言語のどれかを指す。名付けた人間が、そういった少数言語に詳しい人間だったと彼は苦笑した。
彼は文字らしきものもフィンに見せようとしたが、宙に指で描かれたそれはぐちゃぐちゃとしていて正確にとらえることが出来ない。
「わかんない……」
「ごめんね。私も上手く書けた自信が無いです。自分の名前なのにあまり上手く書けなくて」
笑うスイにつられ、フィンも笑った。そして、自分が名乗っていなかったことを思い出しもう一度頭をさげる。
「ありがとう。ぼくはフィンです」
言葉と同時に、鐘が鳴った。
「あ、授業……」
フィンは青ざめた。授業どころか、水さえ納めるべき場所に納められていない。泣いていた時間が少々長すぎたのだ。
「遅刻ですね……。西の塔のスイに捕まったって言えば、きっと許して貰えると思うんですが……」
「え。……スイは塔の人なの?」
ノース・トユの王都には、塔が三つ立っている。
そのうちの中央塔は王城で、残り二つも国政に関わる施設だ。
もっとも、フィンにとっては国の偉い人がいる場所、くらいの認識しかないが。
「ええ、塔の人間です。役割的には下働きですけど」
スイは荒れた手を撫でながら眉の下がった笑みを浮かべる。仄かに自らを卑下する響きがあったが、フィンはむしろ尊敬の色を濃くした。
ちゃんとした人になりたい。というのがフィンの望みだ。子供のフィンには上手く言語化できないので漠然としているが、それは言い換えると、地に足の着いた立場につきたいという意味だ。下働きでも国の職員として雇われているスイは、フィンにとって目標そのものだといえる。
優しくしてくれる人と憧れの人が、同時にできたような気分になる。
スイと別れた後、学校に戻る足取りは、出てきたときより軽くなっていた。
※
西の塔に帰ったスイは、室内の暖かい空気に触れて小さく呻いた。
一度冷え切った末端部が温まることにより、激痛を得たのだ。寒さで体が震えているが、痛みに比べれば些細な問題と言える。
扉の脇に蹲り、涙目で痛みをやり過ごしていると、入り口ホールの奥から出てきた青年に、射殺すような目線で睨まれた。
「あんな真似をして、凍傷にでもなったらどうするつもりですか」
青年の声には、反発や苛立ちが含まれている。スイが返したものは毒だ。
「もちろん陛下がお喜びになられるでしょうね」
「…………」
渋面になる彼が、結局のところ自分を心配していることをスイは知っていた。とげとげしい態度とは裏腹に、ラザンというこの青年は人がいいのだ。国王の気まぐれで自分の監視役になど選ばれてしまった彼は、本当に運の無い人だ。
風切り羽根を切られた鳥の監視など、彼の将来には何の役にも立つまいに。
むしろ、この関わりは彼にとって害になる。スイの口から重いため息が漏れる。
スイはある血縁的事情から国王に疎まれている。彼自身は何もしていないので本当に迷惑な話だ。とある女性の差し金により、西の塔に異動することで身を守っているのだが、効果があるとは言い難かった。
西の塔の洗い場の水道が壊れた時、修理申請に許可を出さなかったのは国王本人である。
記録媒体の保管庫である西の塔には、ある種の文官以外の出入りは殆どなく、彼らの世話係として住み込んでいるのもスイとラザンだけ。その事実が、国王の横槍をすんなりと通したという背景もある。文官達とスイ達を除けば、誰も、塔の洗い場が機能しなくなることに危機感など抱かないのだ。しかし、国王が余計なことをしなければ、特に反対される理由も無いため、申請は通りその日のうちに修理が来たはずだった。
いろんな意味で黒いあの男は、この酷く子供じみた嫌がらせを思いついたとき、ラザンが言ったことと似たり寄ったり――いや、それ以上のことを考えていたはずだ。つまり、己の手で害すことが叶わぬなら、自然の力で間接的に害しよう的なことである。生命に関わることならともかく、それ以外なら例の女性もあまり干渉しない。こういった細々とした悪意は、スイが西の塔に着てからもどんどんと積み上げられている。
考えるうちに、胃がギリギリと痛み始めた。
その男の姿を振り払おうと、スイは今朝会った子供のことを思い出す。
あの子――フィン・フロストと会ったのは偶然だったが、会えてよかった。
その点だけは、井戸に行くきっかけを作った国王に感謝してもよかった。
あの子の状態は本当に危険だったのだ。身体、精神、両方において。周りの人間は彼を殺す気なのか。
薄着だった理由も、あんなに小さい子が水を汲みに来る理由も、聞かずともスイは理解していた。
子供は本来わがままで気まぐれな暴君で、特にあの年頃なら行動に脈絡がないものだ。全能感に満ち、どんなことでもやらかして見せる。スイ自身も恥ずかしながらそういう部分があった。しかし、あの子には全くその様子がない。最初のうちは表情すらなかった。痛みと恐怖で抑圧された子供の典型例だ。
保護者や教師達は何をしているのだと、苛立ちが起こる。
答えは直ぐに出た。周囲の者に何かする気があれば、あの子の環境はとっくに改善されているはず。つまり皆何もする気が無い。
「うん、その辺は全くあてにならないな……。私が、どうにかしなくては」
そうはいっても、彼自身はそう身動きがとれない。下手に動きそれを王に知られれば、現状とは別の意味であの子が不幸になる可能性が十二分にある。過去の人脈に頼るしかないだろう。それが後に自分の首を絞めることを予感しつつも、スイは文をしたためるため、自室に向かう。
「縁もゆかりも無い子供でしょうに」
かけられた声に、スイは足を止めた。とっくに立ち去ったと思っていたが、ラザンはもとの場所から動いていなかった。
スイの独り言を聞いたのだろう。ラザンは咎めるような目をしていた。
「縁もゆかりも無い子を、心配してはいけないとでも?」
確かに、側から見ると、何故お前がそこまでするのだと思われても仕方が無い。スイ自身も己の行動原理をあまり理解してはおらず、衝動が大半ともいえる。
だが、ラザンの言い方が気に入らなかった。スイの表情に、険が混じる。
二人はしばらくにらみ合っていたが、ラザンのほうが先に折れた。
「言い方を誤りました。ご自分の立場を、……身の安全をもう少し考えてはどうか、ということです」
「……それは、確かにそのとおりですね」
ラザンの言うことはもっともだと、スイも認めた。
「忠告痛み入ります。あまり関わりすぎないように気をつけますよ」
認めながらも、放置するという選択はやはりない。そのことはラザンも予感していたのだろう、咎めの言葉はなかった。
当初の目的を果たそうと、スイは自室に戻る。
その背中を、監視役の青年が複雑な表情で見つめていた。
※
季節外れに赴任したヴェルナー・シィル教師が、全生徒のクロゼットに鍵をつけたため、物隠しの嫌がらせはおさまった。
告げ口はせず、スイのことも話さなかった。なのに何故、教師はクロゼットに問題があることに気づいたのだろう。
フィンは解せないものを感じたが、すぐにその違和感は忘れた。
既におさまった嫌がらせよりも、現在を上手くやり過ごすことの方が彼にとって重要だからだ。
このヴェルナー教師がやたらと目配りのきく男で、物隠し以外の嫌がらせもあらかたおさまったことに、フィンは気づいていなかった。
とはいっても、続く問題ももちろんあった。上級生は流石に狡猾で、水汲みの押し付けは続いており、フィンはその日も早起きした。
相変わらず空調機器は接触不良で、部屋の寒さに体が震える。しかし、フィンの心に以前のような悲壮感は無い。
ノース・トユ製の防寒具は優秀だ。隠されず、ちゃんと着込んでさえいれば、朝の水汲みはそこまで苦でもない。何よりも、たまにスイと会えるようになったのでむしろ楽しみになっていたのだ。
スイは仲良くなっても優しくなくなるようなことは無かった。短い時間だが、フィンの話をニコニコと聞いてくれる。
フィン本人に自覚は無かったが、スイと出会って以来、彼の表情は子供らしい豊かさを取り戻しはじめていた。
スイは困っていた。
上級生に押し付けられたはずの仕事を、フィンが楽しむようになっていたからだ。
なんとなく不味い気がしていた。おまけに原因の大半は自分である。環境改善を確認したら、後は距離を保ちつつ見守ろうと思っていたのに、何故こんなことになっているのか。彼は自問自答する。
今日も笑顔でやってきた子供に、彼は何とか言い聞かせようと努力していた。
「ねえ、フィン。これは、あなたがする仕事じゃないでしょう?」
「でも、ここにきたらスイに会えるし。はこぶのはしんどくないよ」
フィンが言うように、上級生も所詮は子供。教育の一環である水汲みは重労働に当たるものではない。
国の礎と成った英雄、クレイ・ノースロップとリティス・トユの慰霊碑の御前に捧げる小さな器の分だけ運べばいいのだ。
「そうはいいましても……」
言いよどむスイにフィンは腹を立てた。
「やだ、つづける。スイのいじわる! ばか!」
思い通りにならず、顔を真っ赤にして地団太を踏むこの子供が、つい最近まで表情を無くし、押し付けられた悪意を全て受け入れていたなどと信じる者はいるのだろうか。
人によってはわがままにうつるだろうこの行為が、しかしスイは嬉しかった。
この子をもう少し側で見守っていたいと、彼の心に欲が出る。
未だ以って国王の横槍はない。ということは、取るに足りないことと見逃されているのだろう。
もう少し踏み込んでも大丈夫なのかもしれない。
そう考えた瞬間、忠告してきたラザンの顔が脳裏を過ぎり、甘い考えだ、と理性は言った。しかしスイの感情はその誘惑に負けた。
「会うだけなら、休日のお昼でも会えますよ?」
「え?」
校外に生徒が出入りできるのは、休日と水汲み当番、その二つだ。
大体自室に引きこもっていたフィンは、そのことに全く気づいていなかった。
一瞬表情を輝かせたフィンは、すぐに萎れた。
「さからうのは怖いもん……」
幼い声にはどうしようもない諦念が含まれている。
子供の現実を完全に理解しきれていなかったスイは、胸が痛んだ。
「……ごめんね」
理不尽に従い続けることが、フィンと上級生、その双方に歪みをもたらすことは想像に難くない。
しかし、フィンがその勇気を持てるまでの少しの時間、それを続けることも必要なのかもしれない。
自己の主張をはじめたフィンからその芽を摘むことは避けたかったし、第三者の強引な介入で両者の関係をより悪化させることもスイは望んでいなかった。
2013年07月22日