フィン・フロストとスイが出会ってから一年の月日が流れた。
ヴェルナー教師の睨みと、それ以上にフィンがはっきりと自己主張を始めたせいか、あからさまな嫌がらせは大体収まっていた。
本人が明るくなったせいか、少数だが友達もできた。去年の同じ時期と比べると、フィンの生活は随分と楽しいものとなっていた。
残る問題は、上級生達との関係くらいだ。
スイとの不思議な関係も続いている。
彼が井戸への用事をなくした時期から、会える回数はぐんと減ったが、休日に一日遊んでもらえるようになりかえって一緒の時間は増えていた。
今日も街で待ち合わせだ。
相変わらずノース・トユの冬は寒い。出かける前に、フィンはしっかりと上着を着込み、手袋やマフラーを巻いた。
それらは、一年前のあの日、スイが掛けてくれたものだ。一度は返そうとしたが、彼はサイズの合わない上着だけを受け取って、残りはフィンに譲ってくれた。スイの新しいマフラーが前のものと良く似たデザインなので、まるで御揃いのようで、それがフィンは嬉しかった。
町の人間の中には、二人とも金の髪に青い目をしているので、兄弟と思い声をかける者もいる。
本当に兄弟ならいいのに。
間違われるたびにフィンの心に募るそれは、叶わぬ願いだった。
※
人の少ない冬の公園で、スイとフィンはのんびりと散歩をしていた。
あまり人目につきたくないスイと、商店街などで上級生に出くわしたくないフィンの思惑が一致した結果である。
昨夜の雪は石畳の上には残っていないが、脇の花壇には少しだけ名残があった。
「雪、やんでよかったねえ」
スイと手を繋いだフィンは、敷石の上を片足で跳ねた。雪が積もっていると滑るので出来ない遊びだ。
「凍っているかもしれないから気をつけてね」
「はーい」
元気の良い返事だが、遊びをやめる気はないフィンに、スイは苦笑する。
手を繋いでいるので、万が一が起こっても大事には至らないだろうが、心配なものは心配なのだ。
スイの心配を他所に、フィンは随分安定した様子で跳ねている。バランス感覚が良いのかもしれない。
しかし、
「あ……」
トントン、と調子よく拍子を刻んでいたフィンの動きがふと止まった。
「どうしました?」
スイの問いかけに答えは無かった。
訝しく思い、スイがフィンの視線を追うと、そこには三人の子供がいた。
遠目にも、フィンよりも体格が大きいことがわかる。
「知り合い、ですか?」
フィンは小さく頷き、繋いだ手に力を込める。それは最早、繋ぐと言うより掴むといった方が近い。
スイは眉を顰めた。
掴まれた手を通し、フィンが震えているのが伝わってくるのだ。ただ事ではない。
「もしかして、水汲みを押し付けた子たちですか?」
フィンは、スイの後ろに隠れ、頷いた。
「行きましょう」
スイはフィンをつれてその場を離れようとしたが、その決断は些か遅かった。二人が立ち去る前に、三人の子供達は二人の前までやってきた。
「よう、フィンじゃねえか。本当に公園にいるとはなあ」
何がおかしいのか、彼らは顔を見合わせ笑う。まだ声変わりしていない笑い声は酷く甲高い。
フィンはスイの後ろで更に小さく固まった。彼らと遭遇してからフィンはずっと震え言葉を発しない。それがスイは怖かった。その様子は少し、出会った頃の様子に似ていた。
一刻も早く、彼らには退散してもらわねばならない。
フィンを背に隠したまま、スイは思案する。フィンにとっては恐ろしい上級生だが、スイにとって彼らは子供という枠組み内におさまる。
なんと言って言い聞かせれば穏便に事態を解消できるのか。
考えるだけの余裕がスイにはあった。
しかし、子供の一人がフィンを囃し立てた瞬間、彼の余裕は崩れた。
「フィン、お前西の塔のドレイを仲間にしたのか?」
残酷な言葉に貫かれ、スイの体が固まった。
実際のところその子が言葉の意味などろくに理解していないことはその片言の発音からも明らかだったが、尊厳を踏みにじる言葉は猛毒となりスイの胸中を一瞬で犯した。
動けなくなったスイの髪を別の子供が引っ張った。何も反論しないスイを、恐るるに足らずと判断したのだ。
幼い顔に浮かぶのは嗜虐的な笑みだ。
「きたねえ色の髪だなあ」
揶揄されても、スイの瞳は揺れるだけ。
それにかっとなったのはフィンだ。
「きたなくないもん!」
彼はあらん限りの声で叫んだ。
それは、フィンの逆鱗だったのだ。雲の向こうで優しい光を放つ、冬の太陽のような淡い金色の髪が、フィンは本当に大好きなのだ。その侮辱は、怯えるだけの羊だったフィンを別の何かに変えた。
先ほどまで震えていたのが嘘のような俊敏な動きで、彼は髪を引く上級生に殴りかかった。
まさかフィンが動くと思っていなかったその子は、一撃をまともに受けた。
フィンの体重は軽く、拳に乗った力もさほどのものでもなかったが、勢いに押され、油断していた上級生は尻餅をつく。
倒れる仲間の姿に、残りの上級生達の雰囲気が変わった。
冗談混じりだった彼らの顔から笑みが消え、怒り一色に染まってゆく。
「この野郎!」
彼らは一斉にフィンに襲い掛かった。
この年代の、年の差は大きい。
しかしその差を埋めるように、フィンは狡猾に、獰猛に立ち回った。小柄な体で敵の間をすり抜け、立ち位置で相手の動きを阻害する。見るものが見れば、そこに戦闘における天賦の才を見て取ったかもしれない。
ただ、やはりどうしても年下の子供の力と体力は劣る。不意をうてぬ今、フィンの不利は明らかだ。
ようやく我に返ったスイが見たのは、完全に守勢に回りながらも、攻撃の意思を失わぬフィンの姿だ。しかし、息切れする彼の背後に立ち上がった上級生が近づいている。上級生の顔は屈辱と怒りに赤く染まっていた。
危ないと思った瞬間、スイは反射的に動いていた。
彼がとった行動は、フィンをかばうことではなく、注意を促すことでもない。
慌てて駆け寄り、フィンの体を担ぎ上げたのだ。
担ぎ上げた瞬間、子供の重みによろめいたが、彼は踏ん張りそのまま逃げ出した。
「な、にげんなよ!」
「はなせ! あいつらたおす!」
ばたばたと暴れるフィンを押さえつけ、多少距離をとったところで、大人の男の怒号が響いた。
※
学校の会議室。長机の長辺に泣きじゃくるフィンと暗い顔のスイ。その正面に憎憎しげな子供達。ヴェルナー教師は渋面で立っている。
公園に現れた男はヴェルナー教師で、その場にいた全員が仲良く連行されてきたのだった。
「何故また、公園で喧嘩なんてしたんだ」
「それはこいつが……」
「あ、いつらが、すいを、どれいって、きたな、い、いろって、いっ、たから」
涙がぼろぼろ零れるフィンの目は、はっきりと二人の上級生を見据えていた。夏空のような鮮やかな青色の奥に、怒りの炎が燃えている。
泣きながらのフィンの言葉は細切れで、所々しゃくりあげるためアクセントもおかしい。しかし、ヴェルナー教師ははっきりと聞き取った。
教師の表情が僅かに変わる。それを感じ取った上級生達が固まった。
「本当に言ったのか?」
「うん」
頷いたのはフィンだけだ。スイは哀しげな表情。そして言った当人達は、視線を逸らした。
各々の態度に、ヴェルナー教師は事実を悟った。
「本当に言ったようだな。……お前ら、言っていいことと悪いことの区別がつかないのか」
教師の声は淡々としていたが、そこにはおさえきれない怒気が滲んでいる。
それを敏感に感じ取った子供達は一斉にふるえた。
「子供だからといって許されんこともあることを教えてやる。ああ、お前らも後で説教だから逃げるなよ」
フィンとスイにそう言い残し、ヴェルナー教師は上級生達を懲罰室に連れて行った。
残されたフィンとスイは、顔を見合わせた。
双方、浮かない表情が浮かんでいる。
「ごめんねフィン。私がしっかりしていないから、喧嘩なんてさせてしまって……」
年長者のスイがしっかりしていれば、喧嘩にまでは発展しなかったはず。そのことをスイは後悔していた。
「ううん。ぼくのせいで、スイまでいっしょにひどいこと言われてごめんなさい……」
フィンが上着の袖で涙を拭おうとすると、スイがその手を止めた。
かわりに当てられたのは、少しくたびれた、しかし綺麗に洗濯された真っ白な布だ。優しい力で触れられて、涙は吸い込まれ消えていく。
「フィンのせいじゃないですよ。それに、私のために怒ってくれて嬉しかった。ですが……」
スイは哀しげに目を伏せた。
「私のせいでフィンに喧嘩させてしまいましたね」
フィンを私闘に走らせてしまったことは、スイにとって痛恨の極みだった。
自分がもっと上手く立ち回れていれば。そのことばかりが頭をめぐる。
こみ上げる後悔に、スイの表情が暗くなっていく。
慌てたのはフィンだった。
「けんかしたのはスイのせいじゃないよ」
フィンは、自分が怒ったことは後悔していなかった。今まで、自分自身のことではどうしても箍が外れるほどの怒りを抱くことが出来なかった。今回のことで、抑えることが常態化していた感情の扉をようやく完全に開けたような気がしていた。
ただ、自分に巻き込まれスイが言葉の暴力を受けたこと、そして自分が仕返しに直截的な暴力を選んだことで、スイが悲しんでいることが辛い。
「もう、怒ってもけんかはしないよ」
フィンが誓いのように宣言すると、スイの表情が少しだけ和らいだ。
「逃げて、先生にほうこくする!」
「ありがとう。ごめんね」
眉尻が下がった笑みを浮かべたスイは、いつものようにフィンの頭を撫でた。
ヴェルナー教師が上級生達を連れて会議室に帰って来た。
よほど説教が堪えたらしく、全員顔色が悪い。
「すみませんでした……」
彼らは一斉に頭を下げた。
「ほら、謝っているぞ。お前も何か言え」
ヴェルナー教師に促されたスイは、彼らの頭頂部を見つめながら、硬い声で告げた。
「今後言葉は気をつけて選んでください。あなた方が思っているよりも言葉は重く鋭い。そして一度出た言葉を取り消すことはできません。また、自分より幼い子に絡むのは恥ずかしい行いです。上級生としての自覚を持ち、ふさわしい振る舞いを身に着けなさい」
「はい」
彼らは苦言にもしっかりと頷く。
この変わりよう、ヴェルナー教師は一体どんな怒り方をしたのやら。
スイが疑惑の目を向けると、ヴェルナー教師は目を逸らした。
半泣きの子供達が返されて、後にはヴェルナー教師、スイ、フィンの三人が残る。
「じゃあ、お前らも説教の時間だな。まずフィン・フロスト。今回は彼らが悪かった。しかし私闘は駄目だ」
「はい……」
「スイ……えーと、年嵩なんだから、もっとしっかりしろ」
「不甲斐ない限りです」
項垂れる二人に、しかつめらしく説教したヴェルナー教師は、しかし一転笑みを浮かべる。
「まあ、上級生を倒した上に、一撃も食らわなかったのは凄いぞ、フィン・フロスト。軍人を目指せばいいかもな。国を守るということは、そこの奴を守ることに繋がるしな」
そこの奴、の部分でヴェルナー教師はスイを指差した。言われた言葉に、フィンは目をしばたたいた。
「ぐんじん……」
フィンの目に希望に似た光が浮かぶ。私闘ではスイを助けるどころか却って悲しませることになる。それを知ったフィンにとって、教師の言葉は正に光明だった。軍人になることでスイを守ることができるのなら、その選択は十分検討に値する。
それに慌てたのはスイだった。
「ヴェルナー教師、こんなまだ幼い時期に将来を吹き込むのはやめてください。それに、軍人なんて危険な……」
「吹き込んではないぞ。将来の一つの選択肢として考えておけ。って話だ」
それを吹き込むというのではないだろうか。そう思うスイと、良くわかっていないフィンを残して、ヴェルナー教師は会議室から出て行った。
※
スイが学校を出ると、校門前にラザンが立っていた。
いつの間にか降り始めていた雪が、彼の亜麻色の髪に積もっている。短くない時間、彼はそこでスイを待っていたようだった。
「ラザン、どうしました?」
彼の雪を払いながら問いかけたものの、スイには答えが見えていた。ラザンがそうまでしてスイを待つ理由など、スイの進退に関わること以外にあり得ないからだ。
事実、ラザンは苦々しげな声で、終わりの始まりを告げた。
「……貴方が子供に構っていること、陛下に知られました」
「そうですか」
スイの顔に表情は無い。
「一年……むしろ長く持ったというべきか。ラザン、今まで誤魔化してくださってありがとうございます」
数ヶ月程は、国王側から何の干渉もないことについて、子供のことなど取り合っていないだけだと思っていた。しかしあまりにも何も起こらないので、どうやらラザンが揉み消しているのだと気づいた。たとえ取るに足らないことだと思っていても、嫌味の一つや二つ飛ばしてくるのが国王という男である。
今日このタイミングで知られたのは、街中での喧嘩。そして居合わせたのがヴェルナー教師だったこと。このあたりが原因に違いなかった。
ヴェルナー・シィルは、求心力のある人物だ。その線で、国王の監視がついていることは予想がついていた。スイの旧知であり国王との事情、そしてフィンとの事情を知る彼は、出来るだけこちらとの接触を断ってくれていたようだが、教師である以上子供同士の喧嘩は見過ごせなかったようだ。
「陛下は、やはり怒っておいでですかね」
「確認はしていませんが、まず間違いなく」
殺したくても殺せない相手が、知らぬうちに知己を頼ったり、楽しく過ごしていた。その事実に、国王は今頃大層おかんむりだろう。
「まあ、間違いなく中央塔に戻されますよね」
「でしょうね」
スイの身を守るため西の塔という鳥かごを用意した女も、おそらくその怒りに押し切られるはずだ。命以外は守る気がないのだ、彼女も。
自分の首を絞めたことは後悔していなかった。
ただ、あの子を置いていくことになるのがスイは辛かった。それでも、友達が出来、頼れる者が出来たフィン・フロストはもう一人ではない。
後悔しているといえば、目の前の青年のことだろうか。
この件では、ラザンが一番のとばっちりを食らうことになるだろう。
「貴方には、甘えてしまいましたねえ……」
罪悪感の滲んだ声に、ラザンは険しい表情を浮かべた。
「貴方は馬鹿ですか? 甘えられて困るなら、最初から隠蔽工作なんてしてません」
刺々しい声でそう言って、ラザンはスイの頭を撫でた。まるでいつもスイがフィンにしているように。
ぎょっとしたスイは、顰め面でラザンの手を振り払う。
「何するんだ」
「いえ、塞ぐ子供を構いたくなるのは、貴方だけではありませんので」
お前がフィン・フロストを構っているのと同じだ。そう言われたスイは、何も言葉を返せなかった。
※
幸せな日々はその冬のある日、突然終わった。
分厚い雲が天を覆い尽くした薄暗い日、スイが直接学校に尋ねてきたのだ。
「ごめんねフィン。もう会えないです」
「え、なんで?」
「少しヘマをやらかしてね。西の塔にいられなくなっちゃったんです」
「え、でも、でも、街にはいるんだよね?」
縋るような問いかけに、スイは静かに首を振った。哀しげな瞳に、それはもう覆せぬことなのだとフィンは悟った。
感情を吐き出すことを覚えたフィンだが、このときはそれが出来なかった。
泣こうが暴れようがどうにもならないことはある。それを思い出してしまったのだ。どんなに欲しくても家族はいないように、どんなに行ってほしく無くても、スイは行ってしまう。
感情のままに嫌だと叫ぶことは無かった。ただ声も無く、フィンはぼろぼろと涙をこぼした。
そんなフィンを、スイは抱きしめてくれる。
それが、最後のぬくもりだった。
フィンが八つの時、彼の太陽は沈んで、もう二度と昇らなくなった。
四年がたった今も、それは覆ってはいない。
2013.09.29