断崖の果てに【最悪の結末】第三話 死の息吹

 その日の空は青く晴れ渡っていたが、街道を行く勇者一行の心は暗く沈んでいた。
 一番前を、後続に気を払いもせず大股で歩くオノレ・アシャール。
 少し離れてその後をとぼとぼと歩くミモザ・フュイユ。
 そんな二人の背中を追いながら、ギヨームは目を伏せる。
 彼が思いをめぐらすのは、すぐ前を行く少女ではなく、先導する男のことだ。

 ――オノレ・アシャールが明らかにおかしい。

 オノレは確かに義務や役目を大事にする融通の利かない人物だ。だが、まだ幼い少女を恫喝するような人間ではないはずだった。あのしかめっ面で意外にも家族を大切にしており、こどもには特別優しく、己の言動を振り返っては照れていたことをギヨームは知っている。勇者の随伴に任命された頃、オノレは密かにミモザ・フュイユを哀れんでもいたのだ。
 それが今やどうだ。ミモザ・フュイユを追い詰めるために、その家族を痛めるつけることに全く罪悪感を抱いていなかった。勇者の刻印を使うことにも躊躇いを持たない。むしろ特別な理由もなく苦しめているようにさえ思える。
 フュイユ村で最初にミモザ・フュイユに役目を説いたときは、義務感が立っていたとはいえまだ常態だったはずだ。おかしくなったのは彼女の両親を連れてきたあたりからだ。
 フュイユ村を出た後、オノレが突然街に先行すると言い出したとき、ギヨームの胸を満たした感情は安堵だった。ミモザ・フュイユと同じくらい、彼は変貌したオノレに恐れを抱いていたのだ。
 人格の豹変。心当たりはあった。嫌と言うほどに。
 もう何度も繰り返した結論を、ギヨームは胸で繰り返した。

 ――オノレは災厄の影響を受けている。



 一行が草原に差し掛かった時、先導していたオノレ・アシャールが足を止めた。
 続けて立ち止まったミモザとギヨームは息を呑んだ。
 本来は青々とした美しい草原だったのだろう。
 しかし、広大な大地に生え茂った草は奇妙にねじれ、茶色く枯れていた。何よりも恐ろしいのは、そのねじくれた植物に首を絡め取られ、小動物が死んでいることだ。
 その小動物もまた、四肢が肥大化し奇妙な姿に変貌している。
「……これって、まさか」
 無惨な景色にミモザは呟きをもらした。
「そう、これが災厄だよ。死の息吹で草や動物が変質してしまったんだ」
 答えるギヨームの声は淡々としているが、それがかえって事実の重さを強調する。
 はじめて目の当たりにする災厄。そのむごたらしさにミモザは掌に爪を立てた。

 しゃがみ込み、草を調べていたオノレが立ち上がり首を振る。
「随分死の息吹が浸透している。先日通った時はまだ半分くらいは無事だったが、最早八割は飲まれているな」
 オノレの告げた不吉な事実に、ギヨームが表情を暗くした。
 先日、とは四日前、勇者を迎えに向かったときのことだ。
 ほんの、四日で。呟きを漏らした彼は、思わずといった様子で歩いてきた街道を振り返った。
「……それじゃあ、あの街に影響が出始めるのも時間の問題なのかな」
「いや、この草原の進行が早いのは、地形上死の息吹が吹き込みやすいからだ。あの街の場合手前の山が盾になる。ある程度の猶予はあるだろう」
「それならいいんだけど……」

 災厄について検討する二人の横で、ミモザは立ち尽くしていた。
 想像していたのと全然違った。彼女の思う災厄は、もっと具体性の無いふわふわしたものだった。そう、海神様の伝説のように実体は無かったのだ。現実にそこで死んでいる小動物の残骸が、ミモザの稚拙な空想を嘲笑っている妄想に襲われた。
 ――災厄を放置すると、人間もこんな風になってしまうのだろうか。
 ふとよぎった不吉な考えに、ミモザは思わず眼前に掌をかざした。胼胝のある手は今はまだ何も変わってはいない。先ほどの爪あとが残っているだけだ。でも、いつかはあの小動物のように異形と化してしまうのかもしれない。
 震える掌にそっとギヨームの手が添えられた。
「ミモザ? 考えてることはなんとなくわかるけど大丈夫だよ。……姿まで変わることは滅多に無いことなんだ。特に人間は」
 気遣わしげに告げられた言葉にミモザは安堵し、しかしぞっとする。変わらないのは姿。
「……じゃあ、人間は何が変わるの?」
 答えはわかりきっていた。だが問わずにはいられなかった。
 ギヨームがびくりと肩を揺らした。瞳が一瞬オノレの方を向き、逸らされる。躊躇うように上下した咽は、しかし意外にもはっきりと答えを告げた。
「主に、心が変質する」
「そう」
 短く答えてミモザは黙り込んだ。



 次にたどり着いた場所は、草原の中の小さな村落だった。
 その村には人気が無かった。
 牧畜を営んでいるのだろう、家畜小屋がぽつぽつと点在しているが、そこに生き物の気配は無い。草食動物特有のにおいも無く、あるのはもっと根源的な不快感を煽る臭いばかりだった。
「腐臭……?」
 いぶかしげに小屋に近づいたオノレが、すぐに険しい顔で戻ってくる。
 ギヨームが何事かを問う前に、オノレは村の出口を指した。
「家畜は全部死んでいる。人がいないのは伝染病を恐れたからかもしれない。早く出たほうがいい」

 そんな風に村を離れた一行は、その晩草原で野宿した。
 オノレを寝ずの番に残し、ミモザとギヨームは火のそばで横になったが、眠れるものではなかった。
 様々なものへの恐怖があり、感情は荒ぶり、また、考えることが多すぎることもあった。
 しかし、それはある意味幸運な方向に働いたのかもしれない。
「何者だ!」
 深夜、オノレが何者かの気配を察したとき、二人ともすぐに身を起こすことが出来た。
「こんな時期にこんなところを旅しているなんて、お前ら勇者一行なんだろう?」
 オノレの誰何に返されたものは、人語だった。
 相手が人間である、そのことにミモザは気を緩めたが、オノレとギヨームはむしろ警戒を強くした。
 ミモザの手をギヨームが引き、オノレの方に近づく。
 オノレのことは怖かったが、自分の手を掴むその手がやけに冷たく、ギヨームが極度に緊張していることを感じ取ったミモザは素直に従った。
 焚き火に照らされた人間は二人。大人の男達だ。
 彼らは目に爛々と炎を宿し、オノレ、ギヨームと眺め、そしてミモザに目を留めた。
「お前が勇者だな」
 何の疑問も無く、彼らはミモザを勇者と断定した。
「勇者だったら、どうなんだい?」
 ギヨームが、ミモザを背後に隠しながら問う。
 男達の返答は抜刀という形で成った。
 ギヨームの背中越しに、ミモザは赤く染まった刃を見た。
「勇者が死ねば、災厄は終わる」
「災厄のせいで、家畜も家族も皆死んだ」
 言葉の中身の割に、彼らの声は酷くうつろだ。ただ、まるであらかじめ定められた言葉を読み上げているだけのように。
 同じように、彼らの瞳が輝いているのはただ焚き火を映しているだけだと、ミモザは気づいた。
 殺意を向けられているはずなのに、自身が起こしたわけではない災厄の責任を押し付けられ詰られているはずなのに、ミモザの心を襲ったのは恐怖でも怒りでもなく、薄ら寒さだ。
 男達が刃を振り上げた瞬間、オノレが剣を抜いた。

 ミモザが良く理解できないうちに、ことは終わっていた。
 ギヨームがその場をすぐに離れようと訴えたため、彼らの亡骸を見ることも無かった。
「あの村の、人たちだったのかな」
「おそらくは」
 ミモザの言葉に応えたのは、意外にもオノレだった。
「……あんなふうに、なるんだ」
「惨いものだ。だから、勇者のお役目は必要なのだ」
 オノレが、遠くを見て呟いた。
 炎を映しただけの男達のナイフとは違い、オノレの剣は夜闇でもわかるほど赤く染まっていた。



 そのまま、夜明けまで歩き続けた。
 さくさくと枯れ草を踏みしめて歩くミモザは、前方を行くオノレの背中をじっと見つめた。
 ギヨームに告げられた事実。目の当たりにした災厄の実態。死の息吹。小動物の残骸。滅びた村。壊れた人間。オノレが手にした、血塗れのつるぎ。
 ミモザはオノレ・アシャールのことを恐れる以上に憎んでいる。自分が勇者に選ばれたことに憤っている。
 でも、災厄を放置してはいけないことも理解してしまった。
 死の息吹は確実に生き物を壊す。
 両親を、村の皆を、ついでのおまけにギヨームも。自分が役目を全うすれば、守ることができる?
 死ぬのは嫌だ。皆があんなにもうつろに変質するのも嫌だ。
 両立しない願望が、あれからずっと胸でせめぎあっている。

 死の息吹は、ミモザ・フュイユの心を確かに変質させた。

2016/11/08 up

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