幾日かの旅の間、滅びた村を、狂った生き物を、壊れた人間を幾度か見た。
北に行くにつれて程度が悪化するように思えた死の息吹の影響は、しかしある地点から徐々に薄れ始めた。
日の差す街道と、その脇に咲く花。
飛んでいく鳥の声は澄んでいて、普通の命の営みを感じさせた。
一片の歪みもない、本来あるはずの情景が、当たり前のようにそこにある。
不思議に思うミモザに、オノレが遠くの山を指差した。
「あの山が盾になって、死の息吹が防がれている」
最初の街がそうだったように、無事な場所は山に護られているのだと、オノレが静かに理由を告げる。
恐ろしさ、残酷性、律儀さ、そんな多面性を持つ男を、ミモザは静かに見つめ返した。
◆
平和な道行の先、ミモザがたどり着いた場所にあったものは、巨大な壁だった。
近づくにつれ、ギヨームが、オノレでさえも、どこか安堵したような気配を見せ始めた。
めまいを起こすほど高く堅牢なそれは、ミモザにとってどこか不安を呼び起こすものだったが、二人の様子から見て悪いものではないようだ。
連れられるままに壁に開かれた大きな門をくぐった瞬間、ミモザは目を丸くした。
「……」
村の外の世界になれつつあったミモザは、ここにきて再び驚嘆のあまり立ち尽くすことになった。
まるで、白昼夢を見ているようだ。
馬車が容易に対向できる大通りはどこまでもどこまでも続いていく。通りの脇に立ち並ぶ建物は今まで見たどんな建物よりも高い。
災厄のせいだろうか、人通りは道の規模ほどは多くなかったが、それでも確かに活気付いていた。
ミモザの思考から現実味が吹き飛び、ただ『大きい、広い、たくさん』という感覚だけに支配される。
ミモザが驚いた最初の街でさえ、ここに比べれば田舎の地方都市だったということがよくわかる。あれほど大きく感じたあの街も、ここで一区画程度に過ぎないだろう。
カチカチに固まり微動だにしないミモザを、ギヨームがやんわりと通りの端に引き寄せ声をかけた。
「王都だよ、僕たちはここから来たんだ」
「……王都」
我に返ったミモザは街並みを見据えた。
大きな石造りの建物、石畳の道、向こうに大きな建物が見える。
街の入り口からでも見えるその建物は、見える範囲では最も大きい。
ここが王都というなら、あれこそが王城だとミモザは推測する。
「あれが、お城?」
「うん、そうだよ」
ただ街並みに興味を持ったと思ったのか、ギヨームが優しく応える。だが、ミモザの内心は穏やかなものではなかった。
状況を覚るにつれ、驚嘆はあっという間に去り、重苦しいものが渦巻き始める。
あそこにすむ一番えらい人間が、二人の死神を差し向けたのだ。
顔も知らぬその人物に憎悪が膨れ上がる。それでいて、死の息吹が齎すものを思えばその判断に納得もしてしまう。死神の王も、きっとこの街の人を護りたいのだ。ミモザとて、見知らぬ人たちが壊れる姿を、出来ることならば見たくない。
今、ミモザの心を最も苛んでいるものは、勇者という役目に対し物分りがよくなってしまった彼女自身の心だった。ただ憎んでいるだけの頃のほうが、もっと、ずっと楽だったのだ。
「私は、報告に戻る」
オノレが短く告げ、振り返りもせず去っていく。
大股で向かう先は真っ直ぐ前方。おそらく王城へと行くのだろう。
最初の街のときのように、別れてもまたすぐに戻ってくるのだろうが、たとえ一時といえど、オノレから離れられることはミモザに仄かな安息をもたらした。
ギヨームも何処かに帰るのだろうか。ならば自分はどうなるのか。
ミモザが視線を向けると、ギヨームは手招きした。
「王都には数日滞在することになるんだけど……。僕の家はちょっと無理だから、知り合いに頼ろう」
「どうして無理なの?」
「……一人暮らしの男の家が、どれほど片付いていないか知ってるかい?」
「……知ってる」
村の青年の家を思い出し、ついでにギヨームの荷造りをも思い出し、地獄の惨状を思い描いたミモザは、ギヨームに素直に従った。
◆
通りを暫く歩き、たどり着いた『ギヨームの知り合いの家』は驚くほど広く大きかった。
無論遠目にもわかる王城ほどは大きくないが、何処までも続く立派な塀がただの家でないことを主張している。
本当にここなのかと視線で訊ねると、ギヨームはあっさりと頷き門の方に近づいていく。ミモザも慌てて、及び腰で彼の後を追った。強面の門番がじろりとミモザを一瞥したが、ギヨームが一言声をかけると、すぐに門の中に通された。
屋敷の玄関先でギヨームが何かの書状を差し出した結果。
家の主に話を通す間、表で少し待たされることになった。
ギヨームまで締め出されているのは、おそらくミモザのせいだろう。
荷物を地面に置き、その上に腰かけた二人の間には沈黙が横たわる。
「…………」
「…………」
ギヨームと二人で過ごす無為の時間はミモザにとって酷く居心地がわるかった。おそらく、ギヨームにとっても同様だろう。
気まずさを誤魔化すように、ミモザは周囲を見回した。
広大な庭園は神経質なほど整えられている。
並ぶ木々が全てが同じ形に切られていて、ミモザには酷く人工的な不自然なものと感じられた。全てが型通りに定められていて、彼女は息苦しさを覚えた。
無意識に助けを求めるように目を逸らしたミモザは、それを見た。
「……あ」
奥の方に隠されるように存在するその一角は、自然な形で木や草花が入り乱れていた。控えめな青い花が、とても可愛らしい。
緑が伸び伸びと生い茂る姿は、植物の種類は違うのに、ミモザに故郷の姿を幻視させた。
呼吸が急に楽になる。息苦しくない、そんなものを久しぶりに見た気がした。
「もしかして、気に入ってくれた?」
ミモザが花を瞳に映し、和んでいると、突然声が掛けられた。
振り向くと、そこにいたのは同年代と思しき少年だった。
慌てて立ち上がったミモザと目が合うと、彼は屈託無く笑う。
人好きのする明るい笑顔につられ、ミモザは知らない相手だというのに素直に頷いた。
「庭のあの辺りの事だよね。うん、素敵だと思った。眺めていると心が落ち着く」
「そうか、嬉しいなあ。あの辺り、俺が整えた場所なんだ」
少年は破顔して喜びを表した。
ギヨームやオノレとは違い、少年には気取ったところが全くない。このお屋敷で働いている子供なのだろう。
「俺はエル。まあ、庭いじりが生業みたいなもんだな」
握手を求めるように、少年の手が差し伸ばされる。
爪の間にインクが染みたギヨームの手とも、血にまぶれたオノレの手とも違う。土で汚れ荒れたエルの手は、ミモザの手に近かった。
「わたしは、ミモザ・フュイユだよ」
だからミモザは、少年の手に潮で傷んだ自分の手を重ねることができた。
久しぶりに、人の体温に触れたような心地がした。
◆
ミモザとの挨拶を終えたエルは、弾むようにギヨームに手を振った。
「ギヨーム久しぶりだな!」
「うん、そうだね」
ギヨームもエルに軽く手を上げる。彼の顔にほのかに微笑が浮かんでいた。
知り合い同士の気安さがそこにはあり、この二人がそれなりに親しい間柄なのが見て取れた。
「ギヨームもミモザも、なんで荷物に座ってるんだ? そこにちょうどいい場所があるのに」
エルが、庭の隅にある飾りの岩を指さす。
まるで鏡のように磨き上げられたその岩は、三人腰かけても余りある大きさで、確かに腰かけとしては十分だった。
だが、形状こそ椅子にむいているが、その所有者は屋敷の主である。
勝手に座っていいものかとミモザが立ち尽くしている間に、エルが真っ先に腰かけ、ギヨームまでそれに続く。
更には二人とも口を揃えてミモザに座れと促した。
「……わかった」
ギヨームの隣に座るか、エルの隣に座るか。あるいは挟まれて座るか。という選択があったが、ミモザは即座にエルの隣を選んだ。
ミモザとギヨームに挟まれたエルは、左右の二人を見比べて問いかける。
「それで、ミモザとギヨームってどういう組み合わせなんだ?」
「ああ、それは……」
死の息吹に故郷が汚染され、親類を頼り王都まで来た少女。
宿は既に避難民で埋まっているので、当面の宿泊先を主人に借りられないか交渉中である。
ギヨームにより、ミモザの素性はそんな風に説明された。
「そっか、故郷が……。ミモザ大変だったな」
「うん……」
その労いが本心からのものであることは、エルの瞳にはっきりと表れていた。そんなエルに対し、ミモザは作り物の笑み返す。
騙しているような痛みがミモザの胸を過るが、かといって本当のことを告げる勇気もなかった。
「話をまとめると。つまり、ギヨームがミモザの移住手続きをして、親族が見つかるまで面倒も見てる、みたいな話なんだよな?」
「あと、オノレもかかわってるよ。というより、主導はオノレ」
「うわあ……」
ギヨームが口にした男の名に、エルが大げさに顔をしかめる。
「あのおっさんがか。ミモザ、苦労したな……」
「……おっさん?」
ミモザは、エルの言葉に困惑する。
話の流れからすると、彼の言葉にある「おっさん」がオノレのことを指しているのはわかるが、ミモザにとっておっさんとは、酔っ払いで口汚い下品な連中のことをいう。年代は
ミモザの困惑を、エルは彼女がオノレの名前を知らない、という意味で受け取った。
「オノレ・アシャール。金髪で怖い顔した、気難しいやつだったろ? 城に書類持って手続きにいくと、大体あいつが出てくるんだけど、もう本当、細部にうるさくてめんどうで。そもそも、なんで武官なのに受付にでてくるんだろうな。それってギヨームの仕事だろ……」
心底うんざりした様子で天を仰ぐエルに、ギヨームは頬を掻く。
「確かにオノレは細かいけどね。エルくんもちょっと大雑把すぎるんだよ。正直、君の持ち込み書類は、僕でもそのまま受理するのはためらわれる……」
「う……」
「この際はっきり言うけど、彼が出てくるのは君が来たときだけだよ。僕が出ると不備書類で押し切られるからって」
「本当かよ……」
「まあ、君に書類を運ばせるご両親に一番問題があるんだけどね……」
「あー。二人とも、忙しい、んだって……」
エルは足をぶらぶらさせ、踵で岩を蹴る。
気安くエルと話すギヨームは、ミモザにとって知らない人のようだった。
いや、実際に知らない人なのだ。
出会った時からミモザはギヨームにとって『勇者』であったし、ギヨームはミモザにとって『死神』だった。
あんなふうに、人と人としてやり取りしたことなど一度もない。
だが、ギヨームとて人間なのだ。死神ではない心だって持っている。
エルと話すギヨームの自然な声を聴いて、ミモザは初めてそのことに思い至った。
ミモザが話を聞き流しながらギヨームについて考え込んでいると、急に会話が途切れた。
「……?」
不思議に思って顔を上げたミモザの視界に、心底申し訳なさそうなエルの顔が映る。
「ごめんな、ミモザ。二人で話し込んじゃって」
「ううん。気にしないで」
ミモザは首を振った。実際それは、彼女の気にする部分ではなかった。むしろ、話を合わせなくていい分楽だともいえる。
「いやいや、本当ごめんな。……あ、そうだ」
エルはそれでも気が済まない様子をみせていたが、やがて何かを思いついたように、笑顔でミモザをのぞき込んだ。
「屋敷の方、まだなんかゴタゴタしてるみたいだし、庭を案内しようか!」
「え、いいの?」
ミモザは思わずギヨームをみる。
「そりゃいいだろ。なあ、ギヨーム?」
「うん。二人で行っておいで」
許可はあっさりとでた。
しかも、エルとミモザ、二人で回って来いという。
勇者を野放しにしてもいいのだろうか。ミモザはギヨームの表情を盗み見たが、彼は笑っているだけで、それ以上のものは読み取れなかった。
許可を得たエルが明るい声を上げる。
「ほらな? あっちの方にもう一か所、俺が手掛けた花壇があるんだ」
エルは立ち上がり、自然にミモザに手を差し伸べた。
ギヨームがするような子供の手を引くそれではなく、たまに父が母にしていたものに似ている。
ミモザは多少気恥ずかしさを覚えながらエルの手を取った。
◆
手をつないで駆けていく二つの背中に、笑顔で手を振っていたギヨームだったが、彼らの姿が見えなくなった瞬間、手のひらを口に押し当てた。
殺しきれなかったくぐもった声が漏れ、庭に消える。
岩から滑り落ちるように地面に蹲り、咄嗟に広げた上着の中に胃の中のものを全部出した。
震える手で上着を脱ぎ、汚れた部分を内側にしてたたみ、ギヨームは大きく息を吐いた。
ギヨームはエルに聞かれても、ミモザについて一切本当のことを言わなかった。
そして、疑問にも答えてはいない。別の事実を上げ、はぐらかしただけだ。
深い意図はなかった。彼はただ、あの場の空気を壊したくなかっただけだ。
結果、ミモザの役目をしらないエルはミモザに常態で接し、ミモザは笑顔でエルの手をとった。おそらく、苦痛しかない旅の中で、エルとのやりとりが小さな安らぎとなったのだろう。
それは彼女を救ったように見える。だが、ここを出るとき、反動で救いの分だけ苦しみはしないか。そしてエルも、いつか真実を知った時、苦しみを得るのではないだろうか。
――僕は、いつも、過ち続けている。
ギヨームは岩にもたれ掛かった。
頭の中が混沌として、胸には刺すような痛みがある。それに名前を与えるなら、罪悪感ということになろう。
渦巻く感情の中、一つはっきりしているのは、こうして彼が自己嫌悪に浸ったところでミモザは一欠けらも救われないということだ。
本当の意味でミモザが救われる道は、彼女に刻印を付与した時点で閉ざされたことをギヨームは理解している。
随伴としてやることをやってしまった以上、どれだけ自分を罰したところでただの欺瞞だ。
そうはっきりと結論付けながらも、旅が始まってからこの方、この強い罪悪感が彼の内から去ったことは一度もなかった。
むしろ、徐々に強くなっている。北に近づくにつれ。
ただの胃痛が、嘔吐を伴うようになったのはいつからだっただろうか。
ここからは見えない、旅の終着地を彼は思う。
そこでなすべきことを考え、瞳が暗くよどむ。
――僕は、そこで、何をするというんだ?
心が闇に堕ちかけた瞬間、遠くで、ギヨームの名を呼ぶ声がする。
立ち上がったギヨームは、何事もなかったかのように子供たちの声にこたえた。
2017/07/16 (前半)2018/11/29(完全版)2018/12/07(微修正)