断崖の果てに【最悪の結末】第二話 ギヨーム・ブラン

 ミモザ・フュイユとギヨーム・ブランは小道を歩き続けた。
 昼食時を含め、休憩を何度か取ったが、その間、二人の間に会話は無かった。
 一度も村を出ることの無かった少女にとっては、ただ道を歩くという行為でさえも恐怖になる。外界は未知の世界であり、ある意味荒れ狂った海のようなものだ。
 オノレ、死の運命、知らぬ場所、今も自分を見張るギヨーム。そういった恐怖に囲まれたミモザには、もはや小花を楽しむ余裕などなかった。
 そしてギヨームの方も、そういった状況を強いる自分に後ろめたさを感じ、積極的に言葉をかけることはなかった。

 先導していたギヨームが立ち止まった。
 ギヨームの視線の先にあるのは、小さな町だ。
 少女を連れて、予定通りの時刻に町につけるのか彼は心配していた。しかし、ミモザ・フュイユはギヨームの予想に反し、弱音を吐くことなく歩きとおした。傾きつつあるものの、今だ高い位置にある太陽は、むしろ予定より早い時間に到着したことを物語っている。
 急に立ち止まったギヨームを胡乱げに見ていたミモザに、彼は手招きした。
「ほら。今日は、あの町で休むんだよ」
 嫌々ながらもギヨームに近づき、彼が指差した方向を見たミモザの瞳が見開かれた。
 遠くに見える町が、ミモザの住んでいたフュイユ村とは比べ物にならない程大きかったからだ。ギヨームにとっては小さな町でも、ミモザにとってその町の姿は異様に大きいものだった。
 ぎっしりと立ち並ぶ建物の数に、眩暈を起こしそうだ。
「ねえ、あの建物みんなに、人が住んでるの……?」
 ミモザはあまりギヨームに話しかけたくは無かったが、どうしても気になって聞いてしまった。
「うん? そうだよ。中には空き家もあるだろうけどね」
「そ、そう……」
 ミモザは人の数を考えることはやめた。

 夕刻の町中で、ミモザは眩暈を起こしてうずくまった。
 額には脂汗が滲み、視界は極彩色に瞬き、胸の奥からは嘔吐感がせり上げてくる。
 通りを行き交う人が、あまりにも多すぎたのだ。
 一度に視界に映る数だけでも、ゆうにフュイユ村の人口を越えている。
 そんな大量の人間がすれ違い、横切り、追い越していくことに、村育ちの少女は全く慣れていなかった。
 夕食前の買出し時間に当たってしまったことも、ミモザの不幸の一つだった。
 人ごみは不調のきっかけでしかなく、実際は心労が体をも蝕んだ結果であったが、ミモザは頑なにそれだけが原因だと断じた。
「大丈夫かい?」
「……大丈夫」
 ギヨームが差し出した手を、ミモザは取らなかった。
 本当は全然大丈夫ではなかったが、一人立ち上がる。
 強がりではない。自己を守るためだ。足を止めることを抵抗と受け止められ、自分や残してきた両親に危害が加えられることを恐れたのだ。
 ギヨームはオノレ・アシャールほど危険ではないが、明日彼がミモザの弱音をオノレに報告しないとも限らない。
 たとえ両親は見逃されたとしても、足を止めたミモザに対し、あのまじないをオノレは使うのではないか。そんな疑念と恐怖が、彼女の原動力になっていた。
「あれは、いやだ……」
 あんな苦痛を味わうくらいなら、自分自身を鞭打つほうがはるかに救いがある。
 吐き気と、回る世界を堪えながら、ミモザは宿まで自力で歩いた。



 宿の寝台に倒れこんだミモザはそのまま意識を失い、次に目を覚ました時彼女の服は変わっていた。
 フュイユ村で着られているような、簡素なつくりのワンピースではなく、町の人間が着ていたような上下に別れた一揃えだ。
 布地は絹なのだが、彼女は絹など触れたことがないので、高そうな服とだけ認識した。
 寝ぼけ眼で己の服を引っ張る少女に、書類を書いていたギヨームが声をかけた。
「起きたんだね。それ、宿の人に世話を頼んだんだ。大丈夫だよ」
 要するに彼は、着替えさせたのは自分ではないと言っている。
 ミモザは安堵の表情を浮かべたが、それはギヨームが思っているような意味合いではなく、彼の手を直接煩わせずにすんだからだ。
 好意でも悪意でもないギヨームの態度が、煩わしさから悪意に転ぶと本当に目も当てられなくなる。彼には中庸を保ってもらわなければならない。
 服の質が妙に良いことは気になったが、ギヨームが勝手に用意したのだ。そして彼はそのことを全く気にも留めていない様子。ならば、気にすることはあるまい。
 そんなことを考えているミモザを置いて、ギヨームは部屋を出ていき、直ぐに食器を片手に戻ってきた。
「夕食時はすぎちゃったけど、おなかに入れておいたほうがいいよ」
 ギヨームはミモザに器を渡した。中身は粥だ。
 少し冷めかけたそれを眺めながら、ミモザは確認した。
「さっきみたいに、動けなくなっちゃだめだから?」
「……いいや」
 実際のところ、ギヨームはミモザの体調を心配しただけだったが、自分の行動を省みるとそんなものは胡散臭い偽善でしかないことを良くわかっていたので、否定以上の返答ができなかった。
 勇者の随伴を引き受けた時点で、ギヨームはミモザに対して加害者にしかなり得ないのだ。
 言葉を濁されたミモザは、それ以上の追究をしなかった。
 彼らが何を考えていようが従う。それしか選択肢は無い。
 彼女は粥を義務的に食べきった後、再び気を失うように眠った。

 翌日目を覚ましたミモザが真っ先に取った行動は、周囲に対する警戒だ。
 怯えた目で部屋を見回すが、まだ薄暗い室内にオノレの姿は無い。ミモザはほっと胸をなでおろした。
 ギヨームは寝台脇の書卓に突っ伏して眠っている。起こした方がいいのだろうか。少し迷ったがほうっておくことにした。漁師を引退したクロード爺さんが、嫁に起こされて酷く怒っていたのを思い出したからだ。睡眠妨害は時に過剰な反応を招く。ギヨームを刺激して第二のオノレを生み出すような真似はしたくない。
 狭い宿の一室から、ミモザはぼんやりと窓の外を眺めることにした。
 まだ暗い表を眺めるだけの時間は無為といえるが、安らぎと言い換えることも出来る。
 闇溜まりは、彼女に何も要求しない。
 仄暗い空虚がそこにあるだけだ。
 そんな一時は直ぐに終わった。
 空が明るくなった頃、ギヨームが目を覚ました。
「もう起きてたのかい? 起こしてくれてよかったのに……」
「そういうことを言う人ほど、本当に起こすと怒ってたけど」
「それは確かに」
 思わず口を滑らせたことにミモザは青ざめたが、ギヨームは気にした様子もなく笑い出した。



 にぎわい始めた宿の食堂で、ギヨームは「好きなものを食べて良い」とミモザに言った。
 しかし、彼女はこのような場所で食事をとるのがはじめてであり、そもそも何を食べられるのかもわかっていなかった。
 それらを気軽に質問できる相手なら良かったが、相手はギヨームである。
 ミモザは「あなたと同じものを」と返すしかなかった。
「それで、いいのかい……?」
 ギヨームは少し驚いた様子を見せたが、彼女の言を受け入れ宿のおかみに注文する。
 おかみは眉をひそめたが、客の注文にけちをつけることはなく、厨房に料理を取りに行った。
 その結果二人の前に並んだのは、少量の温野菜と牛の乳二人前である。
「……これ、だけ?」
「うん」
 ミモザにとって、これは明らかに足りなかった。働き手は体力をつけるためにせっせと食べるのが信条のフュイユ村ではありえない朝食であった。
 逆にギヨームとしてはこれでも多いくらいだった。彼は面倒だからという理由で食事を抜く青年なのだ。朝はミルクしかとらないのが常である。
 昨日は、昼食は互いに互いを見ぬ状態で携帯食を齧り、夕食はミモザが倒れたことで一緒にはとらなかった。よってミモザはこのときまで彼のはなはだしく不健康な食事傾向に全く気づいていなかった。
 愕然とするミモザの様子に、やはり同じものでは足りないことを悟ったギヨームは、おかみを呼びとめ彼女のパンを追加注文した。
「ひょろいにいちゃん。あんた、妹さんを飢え死にさせるつもりだったのかい?」
 パンを持ってきたおかみの口調には棘がある。
「……すみません」
 ギヨームは困った様子で頭を下げた。
 ミモザに衝撃が走った。死神の片割れでも謝ることはあるらしい。
 食事が終わるまで、ミモザは奇妙なものを見る目つきで、前に座る青年の様子を凝視してしまった。



 日が昇れば昇るほど、ミモザから落ち着きは消えていった。
 その原因であるオノレ・アシャールは、町の門に立ち、ミモザとギヨームを待ち構えていた。昨日まで着ていた武官の官服から、身軽な旅装に変わっている。
 約一日ぶりに見るオノレは随分不機嫌な様子だった。
 元々鋭い顔つきの彼が表情をゆがめると、異様な迫力が出る。
 ミモザはオノレの威圧感にのまれ立ちすくんだ。
 一方、ギヨームはオノレの機嫌を全く気に留めることはなく、軽く手を上げて笑いかけた。
「やあオノレ。おはよう」
「……随分遅かったな」
 オノレが直截的な嫌味を返すが、ギヨームは全く堪えた様子もなく朗らかに笑い返した。
「うん。相変わらず荷造りが上手くいかなくって」
 肩から提げた鞄を揺らしながらギヨームは言った。それは事実である。
 着替えを袋に入れるだけなのに、彼は何度も袋の中身を全てぶちまけた。
 オノレもギヨームの不器用さに心辺りがあるのか、一瞬眉をひそめたが何も言わなかった。
 しかし、遅くなった理由はそれだけではなかった。与えられた新しい靴の紐の巻き方にミモザが手間取ったせいでもあるのだ。
 昨日の不調も含め、オノレに告げ口されるかもしれない。ミモザは汗ばんだ手を握り締めたが、ギヨームはそれらには何も触れず、町の門を指差した。
「とりあえず、遅れているし早く出発しようよ」
「遅れてるのは、誰のせいだと思っている……。その娘はどうだったんだ」
 オノレの視線がミモザに向けられる。
 瞬間、背筋に震えを走らせた彼女はギヨームの背後に隠れていた。
 心臓をつかまれたかのような恐怖に対する、反射的な行動だ。それが不味い行為だと考えることすらできなかった。
「……随分反抗的だな」
 逃げられたオノレは、表情を歪めながら吐き捨てた。
 それは、ミモザがもっとも恐れていた言葉だった。先ほどの恐怖よりなお深い恐怖に、目の前が真っ暗になる。
「そんなことはない。頑張って歩いてくれたよ。むしろ予定より早く街に着いた」
 許しを乞おうとしたミモザを制止し、ギヨームは物言いたげな表情をオノレに向けた。
 明らかに棘のある視線を受けたオノレは、肩をすくめた。
「その服は?」
「元々履いてたサンダルだとこの先の道のりは辛いだろう。靴だけ買うと服装とちぐはぐになりそうだったから、一式買い換えたんだ」
「……そうか」
 何か言いかけたオノレは、結局言葉を濁した。
 そのまま、ミモザとギヨームに背を向け、彼は門を目指す。
 数呼吸遅れ、二人もまたオノレを追って歩き出した。

2016/08/25 up
初掲載:2013/07/19(小説家になろう)

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