断崖の果てに【最悪の結末】第一話 断絶

 薄れていく潮の香を惜しみ、ミモザ・フュイユは故郷を振り返った。
 潮騒は遠く、もう届かない。風に乗って届く潮の匂いも、この白い道をもう少し進めば、薄れて消えてしまう。
 海との別れ、遠ざかる漁村の風景。それは、故郷との断絶を意味していた。
 二人の男に牽きたてられ、死地に赴く彼女には、最早そこに戻るすべは無い。
 胸の奥にこみ上げた感情を、ミモザはおさえつけた。
 この嘆きを訴えたところで、男達に恫喝される以外の結果など生じない。
 それは、『世界を守る尊いお役目』に選ばれたと告げられてからの三日間、散々味わった空虚だ。

 旅立ちの三日前、夏も本番を迎えた午前。
 浜辺の作業場でミモザ・フュイユはあちこちに穴が開いた漁の網を繕っていた。
 父が獲った大物の珍しい魚、その代償がこのところどころ破れた網である。
 申し訳なさそうに網の修繕を頼む父から、ミモザは笑ってその仕事を受け受けたのだ。
 網を繕うミモザの手付きは慣れたものだ。幼い頃から手伝いをしてきた賜物である。作業する手はあちこちに胼胝が出来、節くれだった指は十三の少女のものにしては無骨だが、彼女にとってそれは勲章のようなものだ。
 フュイユ村では、働き者の証拠だと皆その手を褒めてくれるのだから。
 幼い子供達が、作業場の側を駆けてゆく。浜木綿の浜辺にでも行くのだろう。
 弟のような彼らに、ミモザは声をかけた。
「あぶないことはしちゃ駄目だよ!」
「はーい」
 気のない応えだが、あの一群を率いている子はしっかり者だ。そう、愚かなことはしないだろう。ミモザは作業の続きに戻る。
 日差しが強くなる前に繕い終えようと、ミモザは己の手を早めた。

 村の広場に戻ると、人だかりが出来ていた。
 村人達が、遠巻きに誰かを囲んでいるようだ。
 あまり良い雰囲気ではない、どこか浮き足立ったような空気が流れている。
 なんだろう、とミモザが足を止めて眺めていると、彼女に気づいた青年が手招きしてくれた。
「よう、ミモザ、おつかれさん」
「ありがとう。ねえ、これ、何の騒ぎ?」
「ああ、なんでも王都からお役人様が来たんだと」
 王都、といわれてもミモザには実感がなかった。
 彼女にとって王都とは、偉い人がいるところ。その程度の認識しかない。
 海の伝説に出てくる海神さまのお住まいの方がまだ身近に感じる程である。
 そんな遠い世界から、一体お役人様は何をしに来たんだろう。ミモザが青年に問おうとした時、ざわめきが起こった。
 村長が剣を佩いた男を連れて広場に現れたからだ。
 彼らに道を作るように人だかりが割れた。その中にはもう一人見知らぬ男がいる。
 共に若く、村人達が見たことも無い形の服を着ていた。
 豪華に飾り立てられたそれと、照りつける太陽を見比べ、暑そうな格好だという感想を持ったミモザを責めるものはいまい。事実、男達はその上質な服を汗でぬらしていたのだから。
 彼らと共に広場の真ん中に立った村長は、集まってる村人達を見回した。
 表情は苦渋と懊悩に満ちたものだ。
 大らかな老人のそんな表情は珍しい。何か良くないことが起こったに違いない。ミモザは直感する。
 村長は、普段のふくよかな声からは想像もつかぬほど平坦な声で、一人の村人の名を呼んだ。
 あたりがしんと静まり返る。
「わたし?」
 それは、ミモザの名前だった。

 村長の家に連れて行かれたミモザは、彼女に与えられた役目を聞かされることとなった。
 彼らが掲げ、読み上げた文書には『ミモザ・フュイユを勇者に任命する』と記されていた。
 一介の村人には一生拝むことがないであろう、国王の御名と御璽があり、それが勅令であることを物語っていた。
「……勇者?」
 文書に記された勇者という役割。ミモザにとって、それは全く聞き慣れない響きだ。
 困惑に首をかしげるミモザに、役人の片割れ、屈強な体格の金髪の男が蔑むような一瞥を向けた。
「尊いお役目を知らぬとは、物知らずな娘だ」
「やめろオノレ」
 茶髪の役人が金髪の男を諌める。しかし、茶髪の彼とてミモザに向ける視線に悪意こそないが、好意的なものもない。
 少し考える様子を見せた茶髪の男は、やがてミモザに問いかけた。
「災厄は知っているかい?」
 ミモザは頷いた。
 海神様のご加護があるこの近辺ではあまり馴染みが無いが、北の地では呪われた海峡から時に災厄と呼ばれる死の息吹が流れ出してくる。
 死の息吹に触れた生き物は狂い、植物は枯れてしまうという。
 そんな話を流れの行商人が喋っていったことがあったのだ。
「海神さまのお怒りのようなものでしょう?」
 荒れた海がたやすく命を奪い、時に心にまで傷を残すことを思い出しながらミモザは答えた。
 しかし金髪の男オノレは重々しく首を振った。
「違う。海の嵐は止められないが、災厄は止められる。災厄を止める役割を与えられたものが勇者だ」
 ミモザは目を瞬いた。
「そんなこと、できるの……?」
 役人達の言葉を鵜呑みにすれば、ミモザ・フュイユが勇者である。つまりは彼女には災厄を止める力があるということになる。しかし、漁村で育った普通の漁民であるミモザは、自分にはそんな力はないと断言できる。疑問系になったのは、ただ、役人に逆らうことに恐れを抱いたからだ。
「勇者であれば、誰でも出来ることだ。旅の末、海峡に飛び込めばいい。それで災厄がおさまらなかったという記録は残っていない」
 オノレは淡々と、しかし威圧をこめて語った。
 最初は言葉の意味が良くわからないといった顔をしていたミモザの表情が、徐々に変わっていく。
「つまり、私は、死ぬの?」
 妙にはっきりとした発声で、確認するように問いかけるミモザに、オノレは頷いた。
「そうだ」



 少女を家に帰したギヨーム・ブランと、オノレ・アシャールは、暗い表情でその後姿を見送った。
 双方良く似た表情ではあるが、理由は少し異なっている。
「帰しても大丈夫なのか」
 散々そんな役割は嫌だと泣きわめいた少女の姿を思い出し、オノレは顔をゆがめた。
 あの感情的な娘が逃げ出さないか、彼は不安なのだ。
「大丈夫に決まっているだろう。ご両親の命を盾にとって、彼女に呪いを刻み、逃げられないようにしたのは僕達だよ」
 自分達のしたことを、ギヨームは確認するように口にした。
 先ほどまでは存在しなかった、少女の手の甲に浮かぶ禍々しい呪いの文様。それは苦痛を以って彼女の行動を縛る。しかしそれ以上に彼女の枷となるものは、両親の命だろうと彼は考えていた。
 どれだけ言い聞かせても拒絶するだけだったミモザ・フュイユが、一転その役割を受け入れたのは、オノレが彼女の両親を連れてきた時だ。
 これ以上拒むなら、家族も反逆罪で処刑する。オノレの言葉と行動はミモザ・フュイユに覿面に効果を表した。
 今すぐにでも旅立ちたいと地べたに這い蹲り懇願した少女の姿が、ギヨームの頭から離れない。あの空虚な絶望に満ちた表情は、子供が浮かべるものではなかった。
 自分達の姿が彼女の目には悪鬼のように映っており、実際に自分達の行いが悪魔の所業である自覚がギヨームにはあった。
「何の罪も無い十三の女の子にここまでしなきゃいけない、勇者のお役目ってなんだろうね」
 彼の思考は言葉に漏れ、オノレが答えを返した。
「国の礎だ」

 この国には勇者と呼ばれた人達がいた。
 勇者が立つといえば聞こえはいいが、彼らは国を襲った災厄を収めるために捧げられた生贄である。
 橋を作る際に人を埋めたり、山神の祠に生娘を捧げる行為となんら変わりはない。国家規模に拡大されただけで、本質としては何処にでも良くある話だった。
 国のために命を捧げた功績とその勇気を称え、初代の王が最初の一柱を『勇者』と呼んだのがその起源だといわれている。
 建国から約二百年の間に六人。
 そして、先の勇者から三十年後、七人目に選ばれたのが、ミモザ・フュイユという名の、南部にある小さな漁村に生まれた少女である。
 親は漁師であり、本人もこれといった特徴の無い、十三歳の村娘だ。
 そんな少女が何の因果で選ばれたのか。それは、彼女を死に誘う役目を持った男達も知らされてはいなかった。



 ミモザは尊いお役目など御免だった。
 そこにどんな名誉があろうとも、大好きな海で、大好きな両親の手伝いをして暮らしている方がよかった。
 しかし、拒むミモザに業を煮やした男達の矛先は、両親に向けられてしまった。
 言葉と力で痛めつけられる両親の姿。それを見せ付けられた彼女は、男達に早期の旅立ちを懇願したのだ。
 己の末路に納得したわけではなく、自分と周囲の何もかもが踏みにじられる現実から逃げたかっただけだ。
 旅立ってしまえば、理不尽に切り裂かれるものは自分だけになる。
 痛めつけられ、死を前にした両親が、その原因となったミモザを憎むような、最悪の未来を回避できる。
 それは彼女にとって、最後の、最大の救いに思えた。

 旅立ちの朝、最後に両親にかけるべき言葉を、彼女は終ぞ見つけることが出来なかった。
 私のせいで、悲しませてごめんなさい。
 あるいは、二人のことが大好だと。
 そんな本音を告げれば、両親がいつまでも苦しむことは目に見えていたからだ。
 黙って消えた薄情な娘だと、そう思って忘れられる方が、きっと二人のためになるとミモザは信じていた。
 だから彼女は両親から目を逸らし、無言で村を後にした。



 少し坂になった小道を歩き続け、風から潮の気配が消えた頃、周囲に生える草の種類が変わった。
 浜辺ではあまり見かけない、愛らしい小花が咲いている姿に、ミモザの心は少しだけ慰められた。
 勇者は自らの足で旅をしなければならない、という慣習がある。
 それを聴いた時、自らの足で死地に赴かせるとは、残酷で悪趣味な話だと、ミモザは思った。
 しかし、このような仄かな喜びがあるのなら、それはどこか温情を含んだものなのかもしれない。
 そんなことを思っていられるのも今のうちだけだ。結局のところ、真綿で首を絞められるか、一突きに殺されるか、その程度の違いでしかない。それを理解したうえで、ミモザはその慰めを受け入れていた。

 役人は、風景が変わった頃に一人減った。
 旅立ちを受け入れた時に、逃亡や反抗を防ぐためのまじないを刻まれたので、見張りは一人でも十分だと判断されたのかもしれない。
 怖い方の男――オノレ・アシャールがいなくなったのは彼女にとって幸運だった。
 ただ、残ったのが少し気弱げなギヨーム・ブランであったところで、運命にはなんら影響をもたらさない。
 どうせ、逃げたところで手の甲のまじないに殺されるのだ。
 村にいた頃、オノレ・アシャールが脅し混じりに発動させたまじないは、ミモザに圧倒的な苦痛をもたらした。泣き叫び、いっそ腕など切り捨てたいと願ったし、死ねるなら死にたいとも思った。
 何よりも恐ろしいのは、そんな状態であっても、体は立ち上がり、自らの足が北に向かって歩き出したことだ。
 旅の終着点は北の海峡と聞いた。
 つまりは、そこに操られた体がたどり着くまで、あの恐ろしい苦痛は続くのだ。
 思い出した痛みにオノレ・アシャールの姿が重なり、ミモザは震えた。
「……大丈夫、オノレは、勇者の旅立ちを告げるために先に街に向かったんだ。今日は帰ってこないよ」
 青ざめたミモザに、ギヨームは遠慮がちに声をかけた。
 怯え、何かを探すように視線が動いたミモザの姿から、彼女の恐れをギヨームは正確に読み取っていた。
「そう……」
 それは彼の親切心だったが、ミモザは少し落胆した。
 もうオノレ・アシャールは二度と戻ってこないと、明日まで夢を見ていたかったのだ。
 ギヨーム・ブランも結局のところオノレ・アシャールの同類ではあるが、彼はミモザを恫喝しない。その意味では彼女にとってよほどマシな相手だった。

2016/08/25 up
初掲載:2013/07/18(小説家になろう)

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