星灯たちの諧謔曲

第二話【運命の人】001

 降りしきる豪雨の中、その子はぬかるむ地面に頭をつけていた。
 泥に汚れた手は冷え切っているのだろう、酷く白い。
「山のまほうつかいさま。ひやくで、おかあさんをたすけてください」
 懇願の声はふるえ、弱弱しく、雨音に紛れてしまったとしてもおかしくない。それなのに、僕の耳にはその声が妙にはっきりと届いた。
 彼が頼っているのは僕ではない。
 隣の父さんを見上げると、険しい顔をしていた。傘の影になっているのに、そんな表情だけは見えてしまう。父さんは、この子を見捨てるつもりだということがわかってしまった。
 彼の、おかあさんはどうなってしまうのだろうか。
 僕にはもういないその人と、同じところに行ってしまうのだろうか。
 そう思った瞬間、体の真ん中が痛くなった。
「ねえ、とうさん……」
 得体の知れない感情に突き動かされ、僕は父さんの手を引いた。

「…………」
 夢を見ていた。
 小さい頃、初めて麓の町へ行き、セレストと会った時の夢だ。
 窓を見れば、雨が降っている。
 秘薬、母、セレスト、そして雨。
 あの事件の中、普段は深く考えない物事を思い出したところにこの雨音が重なり、記憶が夢という形でよみがえった、といったところなのだろう。
 嫌な夢ではない、が、もしかしたらこの記憶は、僕のはじめての罪の記憶なのかもしれない。
 あの時の五歳の僕は、助けられる為に必要な対価のことなど、考えもしなかったのだ。



 アリーゼ師の出張最終日は土砂降りの雨だった。
 夕刻、いつもどおり薬師組合本部に顔を出し、傷薬を納品していると本部長から声がかかった。
「アレイス・F・クレスタ、今から時間は取れるか?」
「はい、大丈夫ですよ」
 この雨天では【星見】は中止だ。
「そうか、実は往診にいってほしいところがあってな」
「え、往診ですか?」
 僕は意外な言葉に戸惑った。
 この国の標準的な薬師というものは、医学と薬学を修めているものだが、僕の適正は大きく後者に偏っている。十五年の人生の大半を山奥に篭っていた所からもお察しだ。何せ、あの山には診るべき患者がいなかった。
 たまに麓のレーセーズの町に下りては多少の修行も積んだものだが、医師としては三流もいいところである。
 この街に着てからは医術に長けた先輩方について多少改善したものの、例の借金事件が起きて以降はその修行も打ち切りだ。
 なので、往診に行けと――いや、それ以前に診察をしろと言われることは珍しいことだった。
「何かわけありの患者ですか?」
「ああ、商家のお嬢さんでなあ、たとえ医者でも男に触れられるのは嫌なんだと」
「はあ……」
 医者相手にそれを言っても、と思うのだが、お金持ちの女の子ならそんなものか。
 ちなみに、貴族まで行くと医者の性別など全く気にしない人が増え、王族まで行くと誰にも触れさせないところまでいってしまう。
 侍医にだけはなりたくないもんだ。触診不可能な上に失敗即斬首である。どんな無茶振りなんだよ。はじめて聞いたときは突っ込みを入れた。まあ、なりたいと思ってなれるもんでもないし、僕には縁遠いからどうでもいいが。
 と、まずいまずい。脱線してないで、一番聞くべきことは聞いておかねば。
「その人、僕でも対処可能な軽症なんでしょうね?」
「命には関わらない、特殊な薬物中毒。むしろお前向けだ」
「あー、僕向けですねえ」
 ……これは、まず僕ありき。つまり、別に相手が女医を寄越せと言って来なくても、特殊系薬物専門の僕に話が回ってきていた話っぽい。
 例え晴れてても、ねじ込まれていた感じがするぞ。

 本部長が派遣用の書類を作っている間、僕は空き部屋を借りて医療用の白いローブに着替えた。
 以前学生用ローブで向かったら、追い返された経験がある。自分が患者でも、学生ローブの人間がやってきたら嫌だよなあ、と大いに反省したものだ。過去の汚点である。
 そんなことを思い出しながらさっさと着替え、受付室に戻ると、本部長はまだ書類にペンを走らせていた。
「それで。特殊な薬物中毒、ってどんな症状なんですか?」
 対処すべき症状によっては持ち込む物が変わる。
 そう思って聞いたのだが、本部長は首を振った。
「お嬢さんの……いや、家の名誉に関わるので向こうで聞け、とさ。俺も詳細はしらん」
「……なんと非効率な」
 出向かなきゃ対処法もわからぬとな。場合によっては診察後、調薬にここに戻れとでも言うつもりか。
 書類を書き終えた本部長は小さく笑いながら言った。
「必要なものが出来たら魔術で連絡をよこせ」
「…………」
 本部長は、僕がそんな高等魔術を使えないということを知っている。
 なにせ、あまりにも魔術が下手すぎて魔法薬の作成に支障が出るからと、上位組織の【紫の理の会】に話をつけ、アリーゼ師を紹介してくれたのは本部長本人なのだ。
 つまり、僕はからかわれている。
 受け取った書類を包みながら、恨めしげに睨むと、彼は笑ったまま奥に引っ込んでいった。
 結局僕は、ごく標準的な往診用の道具を持って本部を出た。
 少しはおさまっているかと思ったが、激しい雨足は、本部に着いたときと変化がない。
 雨雲に太陽の光が遮られ、この時間、いつもならまだ明るいはずなのに、まるで日没後のような暗さだ。
 なんとなく不安になる。この天気がまるで、この仕事における僕の未来を予兆しているかのような気がしたからだ。
「……何か、嫌な予感がするんだよなあ」
 僕のぼやきは、雨音の中に消えた。



 たどり着いた屋敷は、正に大豪邸であった。
 敷地は多分、僕が住んでるボロアパートの二十倍以上はあるのではなかろうか。
 ……適当に言ってるけど。
 魔術式の灯りで照らされた塀は複雑かつ典雅な模様を刻み、天辺には泥棒避けと思しき突起がびっしりと並んでいる。なお、それの正式名称は知らない。何せ、こんなものが必要なお屋敷にも、そんなところにお住まいになるような方々にも近づいた事がなかったもので。
 ちなみに、魔術学院内【紫の理の会】管轄区域の防犯は魔術九割である。残り一割は物理、つまり【野獣】の存在だ。犯罪撲滅と叫びながら屋内を破壊し、何処までも追ってくる姿は正に侵入者にとって悪夢であろう。
 そんな風に、僕は能動的に現実逃避を行っていた。
 そう、これは現実逃避である。
 目前にそびえる、ご立派過ぎる門に気後れしているのである。
 ぴっかぴっかの門を売るだけで、あのボロアパートで一生暮らしていけそうな予感がするのである。
 この大豪邸は、ボロ屋住まいの僕にはあまりにも刺激が強すぎた。
「おおお……」
 全くもって意味不明な呻きがもれる。
 しかし僕は、勇気を振り絞り呼び鈴を鳴らした。
 もういっそ、この呼び鈴鳴らしが本任務でいいんじゃないかしら。僕はもう十分に戦った。
 再び現実から逃げようとした瞬間、門の脇の扉が開いた。
 中から姿を見せたのは、中年の男だ。
 彼は如何にも高級そうな仕立ての服を着ているが、何故か全身ズタボロである。
 ずいぶんな不審人物であるが、しかし彼にとっては僕の方が不審人物であったようだ。
「この屋敷に何の用だ」
 誰何の声は厳しい。僕は素直に頭を下げた。
「薬師組合から派遣されてまいりました」
 支部長が作った書類を渡す間にも、男はしきりに瞬きしながら、ジロジロと眺めてくる。
 なんとも感じの悪い男である。
「……何か?」
「若いな……」
 思わずもれた、といった感じの言葉だったが、僕には聞こえてしまった。はっきりと、子供だな。と言ってくれても良いですよ。事実なんで怒りもしないしさ。
 まあ、聞こえなかったことにしておくのが一番無難だろう。
「アレイス・F・クレスタと申します」
 名乗った途端、男は眉根を寄せた。
「……アレイス・F・クレスタ?」
 僕の名前を復唱する彼は、何か引っかかるが、その何かが出てこない、といった様子である。
 ……多分、例の噂を聞いたことがあるけど、医療用の白衣を着ている人間とは結びつかない。なので、結局噂の方も思い出せない、といった感じなんじゃないかな。
 【会】の構成員であるユークリッド・ウェインでさえ、『アレイス・F・クレスタ』のことを魔術師と勘違いしていたのだ。【会】の人間でないこの男の認識など推して知るべし。
 僕は男の懐疑に対して、全くの無反応を決め込むことにした。
 事実『その』アレイス・F・クレスタである、などと説明してドン引きされても事である。追い返されたりしたら目も当てられない。多分、本部長怒るし。
 結局白衣を着た僕と『噂の脳筋系薬殺魔術師(偽)』を結び付けられなかったのだろう。男はスッキリしない顔で頭を下げた。
「失礼しました。私は使用人頭のガーレスです」
 こうしてようやく敷地内に招き入れられた僕だったが、一歩踏み込んだ瞬間絶句した。
 正に、庭園としか呼び様のない空間が広がっていたのである。
「なんだこの別世界……」
 思わずもらした言葉からは、いつもの偽敬語が吹っ飛んでいた。