白花の廻り遠き故郷の目覚め

 自分の泣き声で、木蓮は目を覚ました。
 目を開くと、母の石蕗の姿が映った。彼女は心配げな眼差しで、木蓮の髪を撫でていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
 優しく優しく、胸に染みるような母の声。彼女は暖かな手で、木蓮をゆっくりと抱き起こしてくれた。
「おかしな、夢を見てました」
 知らない地をたった一人で旅している夢だった。
 何故そんな夢を見てしまったのか。木蓮は全く心当たりがなかった。
 夢の中で大人になっていた木蓮は、その旅の中笑顔でいたが、本音は途方もなく寂しかったの覚えている。
 名前さえ、同じ意味を持つ異国の言葉に置き換えた自分は、名乗るたびにかすかな痛みを覚えていた。
 わざわざ自分を痛めつけるような行為だといえる。何故そんなことをしていたのか。夢の中の自分はその理由を知っていたが、目覚めた木蓮は自分のことなのにもうわからなくなってしまっている。
「夢の中で私は、これが夢だったらよかったのにって考えているんです。そんなに嫌なら目覚めてしまえばいいのに」
「あら、夢なんて覚めようと思って覚められるものじゃないでしょう?」
 石蕗が笑う。
 故郷を何年も離れていた夢のせいで、何となく懐かしさを感じるその笑顔に、浮かなかった木蓮の気分も少し晴れる。
 そう、夢の中ではいなかった母はここにいる。夢の中の寂しさや苦しみをいつまでも現実と混同する必要はないのだ。そっと手を目元にやると、もう涙も乾いていた。
「みっともないところをお見せしました。父上には内緒にしてください」
 厳しい父のことだ。跡取り息子が夢を見て泣いていたなどと知ると、その軟弱な根性を叩きなおすと言い出してもおかしくない。
 石蕗も木蓮の訴えに同じことに思い至ったのか、眉尻を下げ困ったように笑った。
「そうね、お父様には内緒ね」

 石蕗が障子を開くと、庭では白い花が咲いていた。
「今年も白木蓮が綺麗ねえ」
 木蓮が生まれた時も、この白木蓮の木は沢山の花を咲かせていたという。だから、彼の名は花の名を頂いたのだ。
「来年も、咲きますか?」
「きっと、ずっと咲くわねえ」
 母の答えに、少し違和感を覚えた。
 庭に出て見上げると、空の色は夜に傾きかけていた。綺麗な藍色の濃淡が天を彩っている。どうやら木蓮の昼寝は随分長いものだったようだ。
 母と二人、完全に日が沈むまでのんびりと空を眺め続けた木蓮は、不意に身震いした。
 春先、夜の空気は冷たい。母が繋いでくれている手も、ぬくもりを感じられない。そこにあるはずの感触さえも消え落ちた。触覚を失った恐怖から逃れようと片方の手で白木蓮の木に触れた瞬間、木蓮は違和感の正体を思い出した。木に触れた手のひらは煤で黒く汚れていた。
「覚めたいと思っても覚められないのに、覚めたくない夢に限って、覚めてしまうものなんですね……」
「夢なんて、思うようにはならないものね」
 姿の崩れた石蕗が、哀しげな声音で呟いた。

 ローチカの森でマグノリアは目を覚ました。
 意識を取り戻した瞬間、彼は身震いした。眠っている間に日が落ち、気温が下がり始めているのだ。無防備に眠れば凍死してもおかしくない、夜の時間がやってくる。
 歩きつかれて眠った彼は夢を見ていた。幸せな夢。いつまでも続くと信じていた、そんな幼い頃の自分がそこにいた。
 身を起こしもせず、彼はそのまま天上を見上げた。藍色を帯び始めた空は、故郷の空に似ているようで似ていなかった。
 夢の中で『木蓮』が見上げた故郷の空は、もっと優しかった気がするのだ。幸せなまどろみを思い出し、笑う。見るものがいたら、痛々しさを感じるであろう、そんな笑みだった。
「全く、どちらが夢なのやら……」
 今のマグノリアを夢だと思っていたあの幸せそうな『木蓮』が羨ましかったが、夢の中の子供の自分に嫉妬するのはどうだろう彼は自嘲する。
 本当は、夢見ていることに気づいて尚、夢見続けていても良かったのだ。
 夢見ていることを嘘にしてしまえば、あの世界で幸せにまどろんでいられた。例えそれが程近い死を意味していても、正直さほど忌避意識はなかった。
 世界が終わったあの日、白木蓮の木が炎に巻かれた時に、一緒にマグノリアの心も焼け焦げてしまったのだろうか。
「いつになれば」
 生きていたいと思えるものか。
 この世界を旅し続ければ、思えるようになるのだろうか。
 あの焼け焦げた木に白い花が咲けば、心もまた蘇るのだろうか。
 マグノリアにはわからなかった。

2013年4月1日

INDEX