湖岸の商業都市カルミアは、活気に満ちていた。
行き交う人々は祝祭の白い衣装を纏い、街のあちこちから神を奉る音楽が聴こえてくる。その荘厳な響きは、商都と化した際に失われたはずの聖性を孕み、街の空気を清らかに染め上げている。
五年に一度の大祭は、かつての信仰の街としてのカルミアを、確かにこの地に甦らせていた。
カルミアに到着したばかりのエリカ・ユーフォニウムは、馬車から顔をのぞかせて呟いた。
「すっごいね」
行き交う人々の量もさることながら、街の規模そのものがエリカの知るものとは桁違いに大きい。馬車が止まった大通りの幅だけでも、彼女の住まう街の二倍ほどはある。
通りの両端に立ち並ぶ筈の家々は人の波に埋もれ、エリカの位置からはよく見えない。しかし、彼女が暮らしていた西方都市群の一都市には存在しない様式の、石造りの屋根は確認することができた。全くなじみの無いそれは、彼女の目には物珍しく映った。
エリカがこの街を訪れるのは、五年ぶりだという。かつて彼女はこの街で生まれ育ったらしいが、その頃の記憶はおぼろげにしか残っていない。現在十一歳の彼女には、五年前の幼い思い出は遠く、思い出すことは困難だった。
ただ、街中で奏でられる音楽の響きは聴き覚えがあった。旋律と言葉の連なりは、視覚のみに頼る風景に比べ、記憶に残りやすいものなのかもしれない。彼女はなんとなく、記憶の淵から呼び起こされた一節を口にした。
「御霊は天上に還り、慈雨となり再び地に生まれ落ちる」
「なるほど。カルミアの大祭とは、魂の輪廻転生のためのものなんですね」
「えっ?」
誰もいないと思っていたのに声を掛けられ、エリカの身ははねた。
振り返ると、カルミアまでの同行者の一人、旅人のマグノリアが、馬車の隣で思案するように首を傾げていた。
「マグノリアさん、いるなら言ってよ」
歌を聞かれたことが気恥ずかしくて、エリカはマグノリアをにらみつけた。そんな彼女に青年は困ったように穏やかに笑いかける。その毒気の無い表情にエリカは脱力した。おそらく、彼には何を言っても無駄だろう。更に困った表情をされるだけだ。
マグノリアに文句を言うことをさっさと放棄したエリカは、代わりに先ほどの彼と同じように首をかしげた。
「輪廻……?」
それは彼女にとって聞きなれない言葉だった。エリカの母親であるリリー・ユーフォニウムは元聖職者であるが、彼女が娘にそれに関わる話をしたことは一度もなかった。説明を求め、エリカが見上げると、
「生まれ変わりの概念ですね」
他人事の様にマグノリアは呟く。どうやら、彼はその概念を信じてはいないらしい。では、何を信じているのか。そのことをエリカは尋ねようとして、しかし口を噤んだ。なんとなく、聞いてはいけない気がした。それは子供の勘だ。
「ふーん」
と、エリカが気の無い返事を返したのは誤魔化しに近い。ただ、彼女自身もその概念にさほど興味をもてないのは事実だった。
「とりあえず、わたしも外に出たいな」
馬車に乗っていては、会話しかできない。エリカは自分の足でこの街を歩いてみたかった。
エリカが馬車から降りようとすると、マグノリアが手を差し出してくれたので、彼女はありがたく掴まった。
ようやくカルミアの地に降り立ったエリカは、まず空を仰いだ。
真っ青な空は、彼女の町とは少し高さが違う気がして、新鮮だった。
「あ、鳥だ」
真っ白な鳥が蒼穹を横切っていく。見たことのない大きなそれを指差し追おうとしたエリカは、周囲の笑い声に我に返った。慌てて見回すと、知らない顔や、もう一人の同行者デイジーがエリカの様子に苦笑している。
「あ、あの。えーと」
自分の子供っぽい行為に、エリカは赤面した。これはかなりみっともなかったかもしれない。がっくりと項垂れたエリカは、助けを求めるようにマグノリアを見る。
彼はエリカをからかうような様子は一切見せず、酷く生真面目な様子で空を仰ぎ、
「あれは、ローチカオオハクチョウですね」
納得したように頷く。
「……そうなの?」
「はい、この季節にカルミアから北のローチカの森付近で営巣する、ハクチョウの一種ですよ」
微妙にずれたマグノリアの反応に、今度はエリカが笑みを零した。
ローチカオオハクチョウという純白の鳥は、湖の方角に姿を消した。
真っ白な姿が見えなくなって、エリカは少し感傷的な気分になった。マグノリアの髪もあの鳥のように真っ白で、翼こそ無いが何処にでも行ける旅人だ。なんとなく重ねて見てしまう。
マグノリアはこれからどうするのだろう。エリカは、隣に立つ青年を見上げた。旅の同行者ではあるが、行きずりの縁でもある。もしかするとここでお別れなのかもしれない。そう思うとエリカは少し寂しかった。
カルミアまでの道中、ずけずけと物を言うエリカに気を悪くすることもなく、のんびりと根気よく付き合ってくれたマグノリアのことが、彼女は好きだったのだ。
「マグノリアさんはこれからどうするの?」
「デイジーさんのお手伝いも終りましたし、予定通りお祭りを観光しようと思っています。エリカさんはすぐにお父さんに会いに行くのですか?」
マグノリアは逆にエリカに聞き返した。
エリカの目的は、祭りに合わせた観光ではなかった。
幽閉されている父との五年ぶりの面会のために、はるばるカルミアまで訪れたのだ。道中ある程度エリカの事情を聞かされていたマグノリアの質問に、しかし彼女は首を振った。
「今日はお父さんの元上司のウェーヴェさんに、到着の連絡を入れるだけでおしまい。お父さんの立場が色々難しいから準備がいるんだって」
エリカの表情が曇る。
父が幽閉されている事実、五年も離れていた家族への戸惑い。そういった不安が一気に膨れ上がったのだ。
エリカの父、マロウ・ユーフォニウムはカルミア上層部の派閥争いの煽りを受け、冤罪を擦り付けられた上で幽閉されているとエリカは聞いていた。
マロウ・ユーフォニウムはカルミアでは難しい立場の人間で、閉じ込めておくと安心する人間が多いのだと、エリカの母リリー・ユーフォニウムは言った。
それをどこまで信じていいかエリカにはわからない。真実は幼い子供に聞かせる話ではないと、嘘を聞かされた可能性もあるからだ。
「大丈夫ですよ」
不安に苛まれるエリカの頭にマグノリアの手が触れた。
エリカが俯いた顔を上げると、マグノリアが穏やかな表情を浮かべていた。
エリカはマグノリアに父が幽閉されていることは話していない。なので彼はエリカの不安げな表情は記憶から薄れるほど長いあいだ離れていた家族に向けられたものだけだと思っているのだろう。
しかし、それでもあたたかい手は、少しの安らぎをエリカにもたらした。
「ありがとう。それでね、返事が来るまですることがないからわたしも観光するの。ここって大きな街だよね」
不安を一旦押し隠し、エリカは浮かれ気味に周囲を見回した。大通りを埋める人々の向こう、一段高くなった丘に、繊細な彫刻が施された建造物が見える。カルミアで一番高く大きなその建物の屋根には、神を示す羽の生えた人のモチーフが飾られている。あれが、エリカの父がいる神の社だ。
真っ青な空を背にしたその建物は、どこか神聖な気配を孕んでいた。
(2013年6月26日)