白花の廻り02 暁の星を見上げて

 幾つになっても迷子になる時は迷子になるものです。
 宿のおじさんが『ちゃんと地図を持っていったほうがいい。特に夕方からでかけるなら。この街は入り組んでいるから迷うよ』と声をかけてくれたのに聞き入れず、自分の方向感覚を方を信じた報いでしょう。
 後悔先に立たず、などといいますが。単純にこの日の僕は軽率だっただけだと思います。

 薄闇に閉ざされた街は、迷路と言っても過言ではない入り組み様でした。正直に言うと、宿がどちらの方向にあったのかさえも、今の僕には判断がつきません。
 大きな古い水門を目印にしようと思っていたのですが、細い何本もの河と階段と橋と高い壁のような建物で構成される、高低にのまれたこの街では、既に陰に回り見つけることは出来なくなっていました。
 この街では川の水嵩が増すと建物の上のほうに逃げるのだ、と聞いたことがあります。建物にびっしりと張り巡らされた階段も、大水がきたときに逃げるためのものだとか。
 それに、気付いたのですが……気付いた時にはもう遅かったのですが、この街は微妙に歪んでいます。全てが少しずつ歪み傾き、僕の方向感覚を殺していたようなのです。
 実際の所、一番問題なのは僕が一人ではないことなのです。一人だけなら、腹をくくって何日でもふらふらと地図を作りながら彷徨ってもみるのですが、……見知らぬ幼い女の子に同じことをしろというのは非常に躊躇われます。
 彼女は、僕の同類で……旅人の方じゃないですよ、迷子の方です――一緒に迷っているのでした。この街の子供ではあるようですが、こちらの区画には来たことが無かったようで、あっさりと迷子になってしまったようです。
 出会ったときの第一声が、「あたしを新区に連れて行きなさい」で、僕が迷子だと知ったあとのセリフは「あたしが知識を提供するから、あなたはあたしを新区に連れて行く義務を負いなさい」でした。
 少女の説明によると、ここは目印にしようとしたあの水門――旧水門より南側の旧市街地区であり、十年前水禍に飲み込まれたため住めなくなり、今は廃墟区になっていて人はいないこと。暁の頃空に浮かぶ星を追えば、水門に出られるはずだということ。自分は知識はあるが、実践したことが無いし、今はそもそも暁刻ではないので星が見えない。ということでした。
「……これだけ壁に囲まれていると、星なんて見えないんじゃないですか?」
「……だから、登るのよ。明け方までに一番高い所へ」
 彼女が指差したのは天高くそびえたつ建物の壁に張られた錆びた階段でした。
「正気ですか?」
「冗談は言わないわ」
 頭の両側で結った金の髪をなびかせ、少女はにやりと笑ったのです。

 階段を登り始めた頃はまだ宵の刻でしたが、登りきった頃には既に夜半を過ぎていました。
 時間がかかったのは、彼女があくまでも自分の足で登ることを主張したからです。闇に包まれた階段を、何度も躓き、休憩しながら僕たちは登りきりました。
 宿を出たときに明りを持っていたのが、不幸中の幸いでした。恐らく灯りが無ければ、登りきることはできなかったでしょう。それほどまでに、闇は深かったのです。
 建物の上は、広く平らな空間です。囲いは無く、端により過ぎると落下する危険があるでしょう。
 まず安全の為に中央により、それから僕たちは辺りを見回しました。
 高所から見る街の姿は恐ろしく深いものでした。心を潰されるような恐怖を覚え、僕は少し震えました。夜気の冷たさではなく、広がる黒に。少女を見ると、彼女の方も少しだけ震えています。
 廃墟区は闇に包まれ、漆黒の虚無が広がっているように思えました。
 遠くの方には蛍火のような燐光が広がっています。あちらが恐らく北。新区でしょう。
「……暁の星を見ることも無く、方向がわかりましたね」
「……ええ。でも、もうへとへと……歩けないわ……」
 実を言うと僕もでした。それに灯りの燃料がいつ切れるかわかりません。下手すると階段の途中で闇に包まれる危険があります。そのことを正直に少女につげ、
「どうせなら、暁の星を追って見ませんか?」
 提案すると、少女も苦笑し、頷きました。

 腰を下ろし、うつらうつら眠りに浸る少女に上着をかけ掛け、僕は一人起きていました。
 体力の確保の為に目を閉じている故か、感覚はむしろ鋭敏になり、夜気が少しずつ薄まる気配を、肌で感じます。
「そろそろですかね……」
「ええ……ほら」
 少女も目を覚ましていたようで、彼女は新区の上空を指差します。
「まるで、金平糖みたいだわ」
 空を見上げて、少女はくすくすと笑います。
 つられる様に、僕も空を見上げてみました。明け方の空に浮かぶ一際明るい星は、確かに砂糖菓子に似ています。
「砂糖菓子はお好きですか?」
「ええ」
 頷く少女に、僕は一つ袋を差し出しました。中身は、目下話題中の、
「暁の星です」
 少女は受け取りました。袋の中身を一つ取り出すと、それは白い金平糖。
 暁の空にかざし浮かぶ星と重ねると、砂糖の星と本物の星は一つの星になります。
「……お兄さん、言葉だけだとかっこつけた気障な詩人みたいね、でも全然かっこよくないわ」
 そりゃあまあ、かっこつけようと思ってやってるわけじゃないですから。とか自分に言い訳してみましたが、この言葉は割と僕の胸をえぐりました。
「やってることはいい人なのに、行動内容だけ羅列すると誘拐犯みたいなのがアレなのかしらね。あと、髪が中途半端に伸びて野暮ったいのが言葉とそぐわないわ。……ううん、そんなのはどうでもいいわね。冗談じゃないからよく聞いて。あたしを放ってさっさと行った方がいいわ。人に出くわす前にね。あたしも、あなたも、どっちの方角が新区がわかったし。あたしを連れて歩いてる所見られたら、あなた、逮捕されるわ。誘拐犯として。今まで黙っててごめん」
 なんとなく、思う所がありました。
「もしかして、家出でもしましたか?」
 恐る恐る訊ねると、少女はあっさりと頷きました。
 なんでも、自室の壁に抵抗したような後を残し、窓から木を伝って逃げ出したのだとか。
 理由は、彼女の父――商人らしいです、が多忙で振り向いてくれないから。狂言誘拐家出で、精々心配すればいいと。
 彼女は頬を膨らまし、でも少し泣き出しそうな瞳で語ったのです。
 その幼い心が傷ついていることが十分に伝わってきたので、僕は一つ、彼女に白状することにしました。
「懐かしいですね。僕も昔やりました」
「……怒られるか馬鹿にされるかと思った。あなたもやったことあるの?」
 意外そうな表情を向けられました。
 そうなのです、僕もやったことがありました。流石に狂言はしませんでしたが、勢い任せに家を抜け出し、……山に踏み込んだところで崖から落ちました。崖の底、折れた足で身動きもとれず、なきながら夜の星を見つめ続けました。最終的には助かったのですけど、父に殴り殺されかけました。元々厳しい父でしたが、あんなに怒る姿を見るのは初めてでした。脚は、その後の治療が良かったのか、後遺症も残らずきちんと繋がっています。
 息子の奇行をもみ消すために、父は随分苦労したようでした。子供の我侭というものは、時に大人に多大なる迷惑を及ぼすようです。
「……君の場合まずいのは……やはり、僕が誘拐犯扱いされることでしょうねえ……」
 いや、実際見知らぬ少女を夜の間連れ回しているようなものなので、問い詰められれば反論できないかもしれません。
 でも、逮捕されてるとわかっていても放っていく気はありませんでした。今までこの子を放って置けなかったのは、成り行きとお節介から。『あたしを新区に連れて行きなさい』そう命令した彼女の声と手と膝が震えているのを知っていたから。そして、これからも放っていく気がないのは、あの崖から見上げた心細い星空を覚えてるからです。
「……でも、逮捕されても、僕は君を新区まで送り届けますから。それが義務だって、君自身言ったじゃないですか」
 忘れたとは言わせませんよ?
 そんなことを言ってみると、少女は小さく笑いました。
「あなた、馬鹿な性分ねって、良く言われない?」
「九割くらいの人に言われてますよ」
 やっぱりね。頷いた少女の笑い声が大きくなります。
「それじゃあ、暁の星を追いましょう」
 見上げる視線の先は、少しずつ明るくなっていく空。


 後日談として、彼女は怒られることもなく、自ら彼女を探しに来た父の抱擁を受けたことだけ、付け加えておきます。
 多少羨ましく感じたのではありますが……、まあ、それは、過去を思い出した僕の幼い記憶の一片がそう感じたのだと、自分を誤魔化しておくことにします。
 大体僕の時だって、一番に僕を見つけてくれたのは、僕と同じくらい泣きそうに顔をゆがめた父だったのですから。

(2009年04月18日 別サイトより転載)

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