白花の廻り01 名も無き少年

 そのとき僕は、リシューの大河を渡る移動船を待っていたのですが、運悪く嵐に見舞われ船は幾日も欠航していました。
 船を待つ間の幾日間かですっかり仲良くなったのが、同じように移動船を待っていた十代半ばの旅人の少年でした。
 あまり思い出したくない、出会いは素敵なものではなかったのですが、出会いの後は少しずつ打ち解けてゆき、そのうち暇を塗りつぶすかのように、二人でずっと旅の話をしたものです。
 いえ、旅の話のほかにもいろいろな話をしました。
 本当に沢山の話をしました。

 僕が出会ったその少年は、名前がありませんでした。
 彼は生涯旅を続ける風の民の出身で、いつか大地に身を埋める時に自らの旅に名前をつけるまで、ずっと名前が無いそうなのです。中には、旅をやめ、どこかに落ち着き、その時に名を得る者もあるとのことですが、そのせいで風の民は減りつつあると少年は少し不透明な表情で呟きました。
 彼が同族で名前を知るのはただ一人。旅の途中その死に立ち会った老爺だけだということでした。
 少年は十二の時に家族と別れ、一人旅をしているそうです。旅立つ前も当然家族内でさえ名前は無く、果たす役割の名称で呼び合っていたと彼は言いました。
「なんだか、寂しいですよね……」
 彼は、十四の子供らしく、ちょっと拗ねたように言いました。
 名前をもたない彼は、旅に出る前はそれが当然と思っていたらしいのですが、旅に出ていろんな人と触れ合ううちに、その『自分だけの特別な何か』にとても惹かれるようになったようでした。そもそも、最期に生涯そのものの意味を自らに名づける彼ら風の民にとって、名前というものの意味はとても大きく、羨望は人一倍なのでしょう。いずれ得る物であっても、まだ見えないその遠さに小さな不安もあるのかもしれません。
「……あなたは、何ていうんですか?」
 少年に憧憬の瞳で見つめられて、僕は少し躊躇った後、視線を逸らし小さく答えました。
「……マグノリアです」
「花の、名前……ですか?」
 実際には白木蓮だったそうですが、春に僕が生まれた日、庭では木蓮が満開だったそうです。
 母はその花の名を僕につけたといいました。
 もはや故郷に存在しないその木を思い出すのはつらく、それでいて忘れ去ることもできなかった僕が、異郷の同じものを指す言葉を借り、その名前を名乗るようになったのはいつの頃からだったでしょうか。
 僕の名前を聞いた少年は目を丸くしました。
「女の子……じゃないですよね」
 そう、このラグラス大陸の南部、リシュー流域地方では、花の名前は女性の名前だと相場が決まっているのです。そのことを知ったのは、名乗り始めてからしばらく経ってからでしたが。
 気まずく目を逸らしたままの僕がそれを気にしていることを察したのでしょう、少年はすみません、と小さく謝りました。 「でも、やはり羨ましいですよ。生まれの意味を持った名前が」
 憧憬の目で少年は見つめてきます。
 だから、僕もうなだれた頭をもち上げ、
「……そうですね。でも、名前の意味から始まる人生も、人生の意味を名づけられた名前も、どちらも大切で素敵なものでしょうね」
 笑い返しました。
「それに、名前が無くてもやっぱりね。君は名前を知らない誰かではなく、僕の『友達』としてちゃんとずっと覚えてますよ」
 少年は赤くなりました。その目に浮かぶものは、安堵でしょうか。
 固有の名前を持たないということは、やはり、忘れ去られることも多いのでしょう。
 もしかすると、風の民がほかの国の人々と触れ合い最初に抱く悩みというのは、こういう小さな、でも大きな思いなのかもしれません。

 数日後、僕たちは運行が再開された移動船に乗り、リシューの大河を渡りました。
 その後の彼の行き先は、僕は知りません。
 彼が遠い未来、自らにつける名前は、僕には知るすべもありませんが、彼と出会った記憶、彼の存在のことはきちんと僕の思い出に生きています。彼の名前として。
 今、こうして語れるように。

(2009年04月18日 別サイトより転載)

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