「君の背中を見ているとね、拾われた時のことを思い出すんだ」
遠いようでそんなに遠くないあの頃、自分はかなり自我が希薄な生き物だったと彼女は思う。
同じ言葉を繰り返すことしか出来なかった自分を拾ってくれたエルタ。彼がいなければ今の自分はいなかった。とループ・シィは理解していた。
全く、落ちてた厄介者を拾うなんて、とんでもないお人よしがいたものだ。そして拾われた自分は間違いなく幸運だった。
「生き延びて、今、無駄にふてぶてしい人格を手に入れたのは間違いなく君のおかげだろうね」
それは、感謝の言葉だったのだが、エルタは揶揄されていると思ったらしい。
眉を吊り上げた彼は、ループ・シィに水筒を投げつけてきた。
苛立ちに任せ、
「ったく、あの頃のループに帰ってきてほしいものだ」
などとエルタははき捨てるが、彼が本当はそんなことを望んでいないことは、ループ・シィが一番よく知っている。
だから、言われてる内容の酷さの割に、ループ・シィは全くダメージを受けない。
「本当に戻っていいのか?」
人工生命体故にリセットして戻せないことも無いのだと、からかい混じりに言うと、彼は硬直し、言葉を失った。
エルタの感情は非常にわかりやすい。
当時はそんな彼に保護されていたのに、今はすっかりループ・シィが彼の年上ポジションに立っている。
いつから立場の逆転は起こったのだろう。
そもそも、ループ・シィの人格はいつごろから発達しだしたのだったか。
思い出そうとしても、もう思い出せなかった。
硬直し続けるエルタに苦笑し、仕方ないな、とループ・シィは表情を緩めた。
「悪かった。冗談だよ。でも、君も思ってもいないことを言うもんじゃないよ」
「軽率なことを口にしたのはこっちだけど、でも、冗談になってないことを言わないでほしい」
※
本当に、冗談は選んで口にしてほしいものだ。
当人はあまり自覚が無いようだが、あの頃のループ・シィは本当に見ているだけでも痛々しかった。
無表情に、「何故逃げたのかわからない」と、同じ言葉を繰り返すだけの当時の彼女を思い出し、エルタは気付かれないように手を握り締めた。
それでも一緒にいるうちに、いつしか口数が増え、彼女はエルタに繰り返し以外の何かを話しかけるようになった。
だが、それでも彼女は、たまにその問いを繰り返した。
「研究は打ち切られた。処分が決まった。そのままあそこにいたら確かに死んでた。でも、設定された寿命が来ると結局死ぬんだ。早いか遅いか、それだけの違いなんだ。なのに何故、わたしは逃げたんだろう」
問いかける彼女は、実際のところその答えがわかっているようにエルタには思えた。
わかりきったことを問いかけという形で言葉にし、彼女なりに消化しているだけで、別にエルタに答えなんて求めていないのかもしれない。
そもそも、とエルタは思う。今彼女が生きてここにいることが、絶対的な事実なのだから、理由なんて、この事実に比べるとどれだけの価値があるだろう。
だからエルタは、彼女の疑問のこたえではなく、エルタ自身のこたえを口にした。
「それは、こうして出会う運命だったからだ。間違いない」
自分でもむちゃくちゃなことを言ってる自覚はあった。
むちゃくちゃな上に、恥ずかしい。
彼女の反応はどうだろう。無表情なままあっけにとられるか、全く理解できないと切捨てられるか、どちらかだろうか。
結果から言うと、どちらでもなかった。
「……君は、多分、馬鹿なんだな」
はじめて彼女が浮かべた表情らしい表情は、あきれ果てて物も言えないといわんばかりの、微妙なものだった。
だが、その微妙な表情を得たことに、エルタは何物にも変え難い喜びを抱いたのだ。
ループ・シィが感情を得ることは、エルタの目標、夢のようなものだったから。
そして、それをきっかけにループ・シィは自我を確立させはじめ、気付いたらすっかりふてぶてしい人格が形成されていたのだった。
※
思い出から現実に戻った頃には、エルタの怒りは冷めていた。
割と、なんだかどうでもいいような気持ちになったのだ。結局、今、幸せなのだから。
ただ、ひとつ、ループ・シィの言葉で、腑に落ちないことがあった。
「背中見て、当時を思い出すのは何故?」
何故背中なのか。理由がエルタにはわからない。
「ああ、それはね」
ループ・シィは笑う。
「まだ君がわたしの保護者だった頃、手をつないで引いてくれたあの頃、わたしの目に映るのは君の背中だったから」
(2009.03.23改稿)