記憶の箱庭4.夜明け

 最下階は、上階とは違い広い空間になっていた。
 階段から少し離れたところに、最上階で開けた扉と同じ作りの扉があったが、その硝子の向こうからは眩い光が差し込んでいる。
 近くの窓を覗いてみると、夜闇が見えるだけだった。
 時刻はまだ夜明け前で、つまり扉の光は陽光ではないという証明だ。
 不自然な現象にぎょっとするローナフェレトのとなりで、少年が光を指差し言った。

「ああ、よく光ってるね。出口、完全に繋がっているみたいだよ」
「……そうか」

 今更おかしなことが起こっても驚かないと思っていたが、そうでもなかったことにローナフェレトは苦笑いを浮かべる。
 それにしても、出口が光という形をとるのなら、少年にはローナフェレトの心が筒抜けだったことだろう。
 そしてそれは、どんなに願っても自分の祈りでは光が点らぬ絶望感を少年にもたらしたはずだ。

「お前は、ここから出たいと思っているんだよな?」

 それまでの少年の言動から、彼がそう思っていることは想像に難くなかった。
 ローナフェレトの問いに、一瞬躊躇った少年は弱々しく頷く。
 顔に浮かぶそれは期待を放棄した諦観の表情だ。

「帰りたいよ。でも、無理なんだ。帰りたくないなんて思っていた過去の自分の愚かなことといったらないね」

 少年は自らを嘲るように笑う。歪んだ表情には積年の悔恨がにじんでいた。
 先ほど彼は、裏切られるのが嫌だからもう仲間はいらないといった。しかし、彼の本音はそこには無いとローナフェレトは思う。この少年はただ、同じ苦悩を抱える者を増やしたくないのだろう。
 ローナフェレトの中で、この少年の人物像が明確になる。彼は寂しくて、しかしその寂しさを他人に押し付けない優しさを持った人だ。
 たとえそれがローナフェレトの思い込みでも、少年を助けたいと彼は心から願った。
 箱庭の願望器の機能を聞き、そして少年の現状を知った時から、頭の中で燻っていた憶測を反芻し、彼は口を開いた。

「お前の言っていた『箱庭の願望器』の機能がすべて本当なら、私はおそらくお前の帰還を手伝うことが出来るはずだ」
「……いきなり何を言ってるの、ローナフェレト。やめてよ、もう希望は持ちたくないし、期待して裏切られたら、きっと正気じゃいられない。夢なんて見たくないんだ」

 悲鳴のように吐き出す少年の姿はひどく痛々しい。
 だが、ローナフェレトはそんな少年の瞳を容赦なく見据えた。

「ここは、箱庭の願望器だ」
「……そうだよ。だから、願望が叶って帰れなくなったんだ」

 少年は力無く呟いた。
 震えるその声を、ローナフェレトはあえて無視し、言葉を続けた。

「この器の中では、願ったことは何でもかなう」

 最初に少年が言っていた『器の中は、例外なく願いが叶えられ、具現化される』という言葉は嘘ではないと、ローナフェレトは暫定的に認めている。
 叶う願いと叶わない願いの違い。例えば、帰りたいという願望が『出口の生成』という回りくどい形を取った理由も、憶測でなら理解できた。
 要するに、少年の言葉通り、箱庭の願望器が干渉出来るのは、『器の中』だけなのだろう。
 願うだけでは直接外に出られないのは、あくまでも、転移先を器の中にしか取ることができないからだ。そう考えると、少年を呼び寄せることが出来たことに辻褄が合う。
 先ほど不安に襲われた時、求めた兄は現れはしなかった。兄は器の外にいたからだ。そしてこの中から兄の無事を祈っても、外にいる兄が守られることはない。
 だが、もちろん中にいる者については願望は叶えられるはずなのだ。

「私が、お前と共に出ることを望めば、お前の解放は叶う筈だ」

 それは既に固定された少年の願望とは別個の、新たにローナフェレトが抱く願望だ。箱庭はこの願いを叶えようとするはずだ。本当に単純な構造であるのならば。
 ローナフェレトの言い分を理解した少年が息をのんだ。

「願いによる、過去の願いの上書きか。いけるかもしれない。……でも、多分、過去の僕の願いの強さとの競い合いになると思う。ローナフェレト、君は、さっき出会ったばかりの僕のために、そこまで強く願えるのかい?」
「教えた覚えはないが、お前は私の真名を知っている。名を預けた相手の為に全力で願うなど、私にとってはたやすいことだ」

 真顔で告げられたローナフェレトの言葉に、少年はふきだした。

「最初、あれだけ僕のことを警戒してたのに、よく言うよ、ローナフェレト」
「今はもう警戒していないから。それで、私はお前を手伝っても良いのか?」

 少年の表情が泣きそうに歪んだ。

「うん、帰りたいよ。助けて、ローナフェレト」



 二人は光る『出口』に向け、歩き出した。
 その途中で、ローナフェレトは難しげな顔になった。
 帰りたいという願いが叶ったとき、少年が直面するであろう事態の厳しさを考えずにはいられなかったのだ。

「お前の言葉を信じるなら、ここに来て数百年経っているのだろう? おそらく世界は大きく変わり、右も左もわからなくなっているはずだ。覚悟は出来ているのか?」

 それは同時に、ローナフェレト自身が抱く、帰還した際兄が、兄を取り巻く状況がどうなっているのかという、不安と恐怖にも通ずることだった。

「そうだねえ。タカネの世界の昔話『シマタロー』……いや違うな、『ウラシマタロー』だっけ、まあ、そういう状況になるだろうね。見知った場所は姿を変え、世界のどこにも僕の知り合いは残っていない。まあ、大丈夫だよ。ここにいるよりは寂しくないさ」

 少年はしみじみと語った。内容は救われないものだったが、表情はどこか清清しい。
 その様子に、ローナフェレトは少年の覚悟が既に出来ていることを悟る。どうやら余計なおせっかいだったらしい。
 話している間に二人は出口の前にたどり着いていた。
 出口から一歩はなれたところで立ち止まった少年は、振り返りローナフェレトを見上げた。

「万が一ローナフェレトの願い届かず、帰れなくても恨みはしないよ」
「そのときは、異母兄を締め上げて、もう一度ここに来てお前の開放を願おう。お前は二度願って出られなくなったのだろう? ならば、二度帰そうと願ったら出られるようになるはずだ。それで駄目なら、三度繰り返せば確実だな」

 ローナフェレトが口にした、兎にも角にも単純すぎる理論に、少年は笑う。含まれているのは呆れでも揶揄でもなく、親しみと感謝だ。

「ありがとう。こんなに親身になってもらったことは、ここに来て以来始めての事でうれしかった」
「……これまでの侵入者に親身になってもらえなかったのは、きっと襲撃のせいだな。あれはよくない」
「だろうね。別に、反省はしてないけど」
「反省しろよ」
「やだよ。だって、あれはタカネとの思い出のひとつだし」

 やはり少年は、彼を裏切り置いていった『タカネ』のことを恨んではいないのだろう。
 懐かしむような目で、『タカネ』が残していった郷愁――記憶の箱庭の奇妙な内装を眺める姿からそれが見て取れた。
 ローナフェレトは少年が名残惜しむ様子を静かに待った。
 彼の追憶は、ほんのわずかな時間で終わった。

「待ってくれてありがとう。もう行こう」
「ああ」

 少年に促され、ローナフェレトは表情を引き締めた。
 余計な感情を切り落とし、この少年と一緒に外に出たい。それだけを思いながら、扉に手をかけ開く。
 扉の向こうは普通に考えれば空中だったが恐怖はなかった。
 気負いはなく、むしろ気軽に、少年の手を引き扉の外に踏み出した。



 遺跡の入り口に飛ばされたときのように、それはほんの一瞬だった。
 出口に向かって踏み出した瞬間、二人は既に草原の真ん中に立っていた。
 白み始めた空の下、戸惑う二人を穏やかな風が撫でて行く。
 草のそよぐ音が、耳に優しかった。

「出られた……?」
「ようだな」

 ローナフェレトの顔に、安堵が浮かぶ。
 真上を見上げれば、遥か上空に黒い点が見える。あれが【浮遊監獄】――記憶の箱庭だ。
 中にいた間抑制されていた食欲や睡眠欲、疲れなどといったものがじわじわと復活の兆しを見せていたが、それはごくゆっくりとしたものだった。これならば、急げば疲労や空腹に倒れる前に東都に帰りつけるかもしれない。
 自己の状態を確かめたローナフェレトが隣を見ると、少年はただ立ち尽くしていた。
 感極まって、という表情ではなかった。ただ、戸惑いもあらわに、呆然と眼前の光景を眺めているのだ。

「……大丈夫か?」

 心配になったローナフェレトが声をかけると、少年は頷いた。

「うん大丈夫。ただ、草原の風ってこんな感触だったんだって、そう思うと自分でもよくわからない気分になったんだ」

 内部に一日もいなかったローナフェレトでさえ、自然の風を懐かしく思い、土と草の香りに感情が動いた。少年は今、忘れていた感触を取り戻している最中なのだろう。
 やがて戸惑いを消化した少年は、照れたように笑いローナフェレトに向き直った。

「あのさ、君の重荷になりそうだから通りすがりの名無しのままでいようと思ってたけど、出られたから伝えるよ。僕の名前はイアリーク・ウェインリートという。字はイーク。昔この草原の覇権を争っていた一族の一人だよ」
「イアリーク……。なるほどな、お前もウェインリートだったわけか」

 ローナフェレトは納得してうなずいた。
 それはさほど意外な話ではなかったからだ。
 遺跡への入り口は当主の証だと少年――イアリークは言っていた。そしてその仕組みについても詳しい。両者の詳細を知る彼が、同じ系譜の者だったとしても不思議はない。

「君が何を納得しているのかはわからないけど、その納得の材料が非常に単純なものであることは想像に難くないな」
「複雑に考えるのは向いてないんだ」
「それは、この短時間でよくわかったよ」

 ローナフェレトとイアリークは顔を見合わせて笑った。

「本当にありがとうローナフェレト。僕はそろそろ行くよ。君の事は忘れないよ。……じゃあね」
「待て、どこに行くんだ」

 深く礼をし、踵を返したイアリークをローナフェレトは呼び止めた。
 イアリークが立ち去ろうとする方角にあるものは、東都ではなかった。
 ローナフェレトの知る限り、そちらにはただ草原が広がり、一つの古びた石碑が建っているだけだ。

「多分もう残ってないけど、こっちの方に僕が生まれ育った集落があるんだ。今どうなってるのか、失われた時間をちゃんと実感してから現在の都を見に行くよ」

 それはつまり、確認作業だ。
 少年の過去と現在が、空白の時間を挟み断絶されていることの。

「右も左もわからないこの時代で、一人でも大丈夫か?」
「大丈夫だよ。それにね、ローナフェレト。僕に費やしてくれる時間も心も、もう終わりにしていいんだよ。君は君のために急いで帰らなきゃ。帰りたいんだろ?」
「……うん」

 言い含めるようなイアリークの言葉に、ローナフェレトは素直に頷いた。兄の安否を一刻も早く確かめたい。

「そうだな。言葉に甘えて私も帰る。でも、困ったらいつでも会いに来てくれ。……当主の名前がアルーク・ウェインリートになってたら、正面からたずねるのはやめといたほうがいいけど」
「アルーク……。ああ、君を遺跡に送った、やらかしちゃった異母兄さんね。うん、気をつけるよ」

 エアルディークの字に一瞬疑問符を浮かべたイアリークだったが、すぐに納得したようだ。

「それじゃあ、さよならだ。イアリーク」
「うん。ありがとうローナフェレト、がんばってね。お兄さんによろしく」
「ああ」

 声を背に受け、ローナフェレトは歩き出す。最早その場に残す心はなく、振り返らなかった。



 ローナフェレトを見送ったイアリークは、己の手を見遣った。
 その手は黒ずみ、末端からぼろぼろと崩壊を始めている。靴の中に隠れた足も同じだと、やがてそれが全身にいたるのだと、彼は知っていた。
 夜明けとはいえ、あたりはまだ薄暗い。黒ずみは影と同化し、そしてイアリークが隠そうとしたことからローナフェレトはそれに気づかず行った。
 己の崩壊を目の当たりにしても、彼は取り乱すことはなかった。
 痛みがないこともあるが、それ以上にこの結末に満足していたからだ。

「実はさ、解放されると僕は死ぬってわかってたんだ。何百年も死ななかったのは、箱庭の力だから。それでも僕は帰りたかった。死んでも良いから帰りたかった」

 イアリークは、誰にともなくつぶやいた。もしかすると、自分に対してつぶやいたのかもしれない。
 本来の寿命はとうに尽きている。力から切り離されれば実年齢に相応しい末路を迎えると思っていた。そしてその考えは正しいのだと、今彼の体が証明している。
 想像とは違い、その速度は酷く緩慢ではあった。苦痛もなかった。これならば、死の前に故郷にたどり着けるかもしれない。
 懐かしい風を感じながら、そこに向かう事ができる。そこに眠る人に会いにいける。それはこの上ない幸いだろう。
 彼は穏やかに笑い、そしてローナフェレトが去った方角を見た。
 今度ははっきりと、自分の運命を変えてくれた、単純でおせっかいな一族の末裔に向けて告げる。

「君に言うと止められそうだから言えなかった、黙ってた。ごめんねローナフェレト。君のおかげで、今本当に幸せだってことを、信じて欲しい」

 彼が歩き出すころには、東の空に朝日が射していた。

2013.12.20.up

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