記憶の箱庭3.不安と願望、裏切り

 言うだけ言うと、少年の姿はかき消えた。
 取り残されたローナフェレトは狐に摘まれたような気分になり、しばし立ち尽くした。
 気がつけば夕日は沈み、踊り場の窓は闇色に染まっている。
 辺りを支配しているのは静けさだ。天井で光る棒が微かに雑音を奏でるほかは、何の音もない。
 闇と静寂は、ローナフェレトの心にするりと忍び込み、不安をかき立てた。
 この空間は、本人の自覚以上に精神を疲弊させていたのだ。

 崩れるように階段に座り込んだローナフェレトは、半ば縋るように長兄の事を思い出していた。
 子供の頃、さらわれるように領主の館に連れて行かれたとき、不安に泣く彼をなぐさめてくれたのは、フォルスフェレトだった。今思えば長兄自身もまだ子供で、状況はローナフェレトと全く同じだった。不安はローナフェレトと変わらなかっただろうに。
 その後妾腹の子供に向けられた風当たりから守ってくれたのも兄だ。
 東方の人間は皆字を名乗り、真名は名づけた親と本当に信頼した相手以外には預けない。ローナフェレトは長兄に真名を預けるほどに敬愛を寄せている。
 そんな兄はここにはいない。ローナフェレトの手の届かぬところで、おそらく危険に晒されている。

 不安は新たな不安を呼び、ローナフェレトの平静さに罅を走らせた。
 ここに来てから、冷静に振る舞っていたローナフェレトだが、実際のところ大いに混乱していた。使命感に感情のすべてを委ねなければ、立って居られぬ程に。
 帰りたいかと問われて動揺した理由は今なら分かる。本音を自覚することが恐ろしかった。だから目を逸らしていた。
 少年は、そんなローナフェレトの本心を暴いて見せたのだ。

「帰りたいに決まっている」

 本当に帰れるかわからない状況でそれを認めるのはローナフェレトの脆い心には毒だった。
 しかし、張り詰めていた糸が不安により切れた今、最早強がり続けることは出来ない。

 少年の希望通り願望を抱いた。
 さて、この箱庭に変化は現れるのだろうか。
 ローナフェレトは立ち上がり待ったが、何も起こる気配はなかった。



 ローナフェレトは足早に階段を降りていた。
 表情は至って冷静だが、腹の奥では苛立ちが渦巻いていた。
 あまりの激情に不安などどこかへ吹き飛んでしまっている。
 少年の話は何だったのか。帰りたいと思えば帰れるなど、大嘘ではないか。ただ、からかわれていたのか。そのために消費した時間を思うと、怒りは更に強くなる。
 隠れてないで出てこいと強く思った瞬間、

「うわあ」

 少年が宙に現れ、そして床に落ちた。
 どさりという音が静寂に響く。
 ローナフェレトは足を止め目を丸くしたが、彼以上に少年は驚いているようだ。

「いったあ……。なんだよ、ローナフェレト。もう箱庭をつかいこなしてるの?」

 打ちつけた腰を庇いながら、少年は立ち上がった。

「誘導してやらなきゃ細かい願いはかなえられない奴の方が多いんだけどな。才能? ウェインリートの血……?」

 ぶつぶつと呟く少年の表情からは、嘘もからかいも感じることが出来ない。
 実際、少年はローナフェレトの願望どおり現れた。彼の様子から見て、彼自身の意思で現れたということはないはずだ。
 少なくとも、出て来いという願望は叶えられてしまった。
 この事実に、ローナフェレトの毒気は抜かれていた。

「先程、帰りたいと願ったが叶えられる気配が無いのだが」

 いっそ単刀直入にたずねると、少年は後ろめたそうに視線をそらした。

「あー、ごめんローナフェレト。それについては半分うそついた。願えば一瞬で帰れるっていう風に話したのは、君に危機感抱かせるための嘘なんだ。うわあ、おこんないでよ。願わなきゃ帰れないってのは本当だよ、願えば出口が開く、願わなけりゃ開かない。あの時実際、出口が全く開いてなかったからね。だから揺さぶりをかけてみることにしたんだ。……帰りたくないと思ってるのかなって、ちょっと心配でもあったし」
「帰りたくない、か。お前はそれにこだわるな。帰りたくないと願うことは、そんなに危険なのか?」
「……こんなところに一生囚われることを前向きにとらえられるなら、危険じゃないかもね」

 少年はうっすらと笑う。
 想像してぞっとした。
 狂気すら感じる奇妙なこの空間で、ただ一人無為に時間を過ごす日々とはどんなものなのか。たった数時間で疲れ果てたローナフェレトには耐えられそうもない。
 むしろ、少なくとも過去に帰りたくないと願ってしまった少年は、何を思いそれを望んだのだろうか。

「お前は何故、帰りたくないと思ったんだ?」
「ん? 最初は、帰ると死ぬと思ってたから。次は、こんなところにタカネ――ここを郷愁で染めた女のことね、彼女を一人にするのもなーって。今は出たくても出られないから」
「……一度願えば、もう覆らないということか?」
「少なくとも、二度願えばそうなったよ」

 少年の表情は笑っているが、どこか影を帯びていた。
 そういえば、少年の話には最初から女の話が出てきたが、ローナフェレトが実際にその女の姿を見たことはなかった。

「その、タカネという女はどうなった?」
「……帰ったよ。僕をおいて一人でね。ま、裏切られたってわけさ」

 少年は笑みを深くした。
 そこに恨みや憎しみを見出すことは出来なかったが、苦しみや悲しみといった表情が一瞬だけ過ぎって消えたのが見て取れた。

「ま、僕の話はいいじゃない。君の出口はそろそろ開いているんじゃないかな。急いでるんだろ? 時間食ってないで行こうよ」
「お前は何故、私を外に出そうとする? こんなところで……」

 一人過ごすのは辛くないのか。先ほど自分が兄を求めたように、彼が『タカネ』の側にいてやろうと思ったように、自分の側に誰かがいてほしいと思ったりはしないのか。
 ローナフェレトは言葉を濁したが、少年ははっきりと言葉の続きを理解し、こたえた。

「新入社員はいらないよ。だって、誰かに心を許して、また裏切られるのはごめんだよ」



「すっかりお前に毒されたような気がする。結局お前の言い分を信じてしまった」

 数段下を降りて行く少年の背中を追いながら、ローナフェレトはぼやいた。
 少年は肩を震わせ笑う。振り向いた顔は明るい。

「なんというか、チョロいよね、ローナフェレト。願えば出口まで一瞬で飛べるって言ったのに、僕に同情して歩いてるんだから」
「別にそういうわけではないが」

 と否定してみたものの、ローナフェレトが歩いているのは少年の言葉通りの理由だった。
 看破されたことが悔しくて、ローナフェレトは言い訳を口にする。

「入り口はどこからでも繋がるが、出口は草原のど真ん中にしか繋がらないと言ったのはお前だ。草原から東都までどんなに急いでも半日はかかる。……兄上が何か仕掛けられるとして、私が帰りつくころにはもう終わっている。最下階までにかかる五分が明暗を分ける、という状況にはどう足掻いても間に合わない」

 言い訳ではあるが、これもまた事実であった。
 エアルディークは常に用意周到だ。ローナフェレトをここに飛ばした後、のんきに一日も遊んでいないだろう。結局、兄を守るという意味ではここに飛ばされた時点でローナフェレトの負けなのだ。
 認めたくなかったこの現実を、強がり切れなかった心は結局受け入れざるを得なかった。

「まさか、奴が【浮遊監獄】の鍵を持っているとはな」
「ここの鍵はウェインリート当主の証だからね。君の血縁者が持っててもおかしくはないけど」
「は?」

 初めて聞く事実にローナフェレトは少年を凝視した。それと同時に納得もする。当主の証、それを受け取ったからこそエアルディークの勝利宣言だったのだ。

2013.12.10.up

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