記憶の箱庭2.箱庭の少年

 安全を確認したローナフェレトは、最下階に直行していた。
 あくまで慎重さを失わない程度の早足で、階段を数階分降りた時、彼は違和感を覚えた。
 それはほのかに空気が流れたような、錯覚といえばそれで済ませられるような些細なものだ。
 しかしローナフェレトは立ち止まり、感覚を澄ます。
 それが、これまで全く感じなかった、生物の気配だと理解した瞬間、

「この、侵入者め!」

 叫びと共に、ローナフェレトの背中に向かって何かが振り下ろされた。
 気配を読みきっていたローナフェレトが階段を数段飛び降りたことで、それは見事に空振った。
 一瞬のち、べしゃりと、湿っぽい音が響く。

 ローナフェレトが振り返ると、長柄の刷子を振り下ろした少年が驚愕の表情で彼を見下ろしている。顔には大きく攻撃を避けられると思っていなかったと書かれていた。
 十代半ばと思しきその少年から、殺意は感じない。言動に反し、敵意すらないのが奇妙だ。
 ――しかし、敵意はなくとも害意はあった。
 少年が我に返る前に、ローナフェレトは階段を上り直し、刷子の毛の部分を踏みつける。続く攻撃を防ぐためだ。
 再び湿っぽい音が立ち、踏んだ部分から水が滲む。靴を通して伝わる感触が不快で、彼は顔を顰めた。

「……なんだこれは」

 少年は動かせなくなった刷子を放り出し、悪意も敵意も、悪びれた様子もなくへらりと笑った。

「これ? モップ。清掃道具。柄のついた雑巾。床拭くモノ。わかる? わからなくても構わないけど」
「いや、それはわかるが……」
「よかった、本当はわからなければどうしようかと思ってたよ。ま、安心してよ、もう襲わない。これは侵入者への、一種のパフォーマンスだからさ」

 襲撃者の少年は、指を立てて左右に振る。酷くふざけた態度であったが、対するローナフェレトは真剣だった。
 既に一度襲われた以上、襲わないという言葉は信じられるものではなく、また"ぱふぉーまんす"という言葉の意味もわからなかった。ローナフェレトは、良くわからない相手の言葉を信じ込むような可愛げは持ち合わせておらず、警戒を深める。
 このような遺跡にいる少年の正体は、一体何だ。
 ここまでの反応から見て、魔物ではない。魔物に理性はなく獣の性しか持っていないからだ。しかし、人間と言い切るには何処か存在が虚ろでもある。少年の気配は、突然現れたように感じられたのだ。
 緊張を保ったまま、ローナフェレトは問いかけた。

「私は事故の様なものでここへきた。害意は無い。お前は何者だ?」
「僕? 僕はこのオフィスビルの管理人という設定で配置された人形さ。ま、元々は人間なんだけどね」
「おふ……? 元々……?」
「そう。元人間。下界の時間で何十年、いや何百年。このままの姿なんだよ。既に人間とはいえないだろ?」

 片目を瞑りながらの少年の言い分を、ローナフェレトは内心で戯言だと切り捨てた。
 信じなかったのは人形という言葉ではなく、元人間だという部分である。
 このような遺跡にいるのだ。魔物ではなくとも、魔性の類だろう。
 冗談に付き合う気のない彼は、少年に疑問をたたき付けた。

「管理人だと言ったな。この建物はなんだ。あまりにも奇妙で……気分が悪くなる」
「はは、奇妙なのは仕方がないね。ここは異界からやってきたとある女の郷愁が具現化された、記憶の箱庭だからね。僕達には馴染めないのが道理というものさ。女の世界にはあったそうだよ。こういう様式の建造物がね。といっても、屋上と最下階をのぞけば、タカネが出入りしてたっていう二階部分が全階複写されちゃってるみたいだけど」
「箱庭……。【監獄】ではないのか?」

 少年は噴出した。
 よほどおかしかったのか、階段に座り込み、背中を曲げ肩を震わせる。
 ローナフェレトの位置からは、陰になりその表情は見えない。
 しばらく笑い続けた少年は、やがてなんとか笑いをおさめたといった様子で頭を上げた。

「それ、すっごく的を射た名前だね。君がつけたのかい? 違う? まあどうでもいいんだけど。そう、ここは女にとっちゃ監獄だったさ。多分僕にとってもね」

 少年の顔に、酷く楽しげな表情が浮かんでいた。しかし声は乾いており、目は笑っていない。黒い瞳の奥は空っぽで、ローナフェレトは彼の空虚に引き込まれそうな錯覚に溺れそうになる。
 それに気づいた少年が、目を伏せて頭を振った。

「悪い悪い。別に君を壊すために出てきたんじゃないんだ。して、君はこれからどうするつもりなんだい? 無目的にうろうろしているって風でもなかったけれど」
「脱出する。屋上と最上階には出口はなかった。よって最下階を目指す」
「平明な考え方だね。そして、それは正しい。ここは基本的に酷く単純な構造だ」

 少年は大仰にうなずいた。
 管理人のお墨付きを得たローナフェレトだったが、それは彼にとってさほど大きな意味を持たなかった。ローナフェレトは未だこの少年を全く信用していないからだ。たとえ最下階を目指すのが的外れだといわれたとしても、当初の目標を全うするつもりだった。
 そんなローナフェレトを眺めていた少年がふいに立ち上がった。
 階段をおもむろに降り、警戒に身を硬くするローナフェレトとすれ違い、踊り場についたところで立ち止まる。

「さてと。目的も聞いたところで、そろそろ本題に入るべきかな。そうだなあ……。うん。ごらんよ」

 少年はローナフェレトに背を向けたまま、踊り場の窓を指差した。
 窓の向こうの空は茜色に染まっている。

「もうそろそろ夕刻だけど、君はおなかがすいたり喉が渇いたりはしないのかな?」
「……何故そのようなことを聞く? 腹など減っていない。喉も渇いていない。……そろそろ渇きを覚えてもおかしくはなさそうだが」

 ローナフェレトが最後に飲食したのは正午すぎ。昼食時だ。
 回答を聞いた少年は振り返り、したり顔で頷いた。

「うん、結構経っているね。君は本来ならそれらの欲求を感じはじめているはずだよ。平気なのは多分、そんな何の物資も手持ちがない状態で、腹が減りたくない、喉が渇きたくない。と無意識に思っているからさ。ここは望みが叶う空間だからね。女が郷愁を具現化させたように、君の欲求はかなえられている。確かめてみたいなら、そうだね、喉が渇きたいと思えば乾くはずだよ」

 荒唐無稽な話である。ローナフェレトはばかばかしいと感じたが、少年の言葉に引きずられ、仄かに思考が傾いた。瞬間、彼は酷い渇きを覚えた。

「!」
「苦しそうだな。乾きたくない、潤いたいって思いなよ」

 言われるまでも無く、ローナフェレトは本能に近い強さでそれを願っていた。渇きは一瞬で引いていった。
 ローナフェレトの顔に驚愕と、それと同量の安堵が浮かぶのを見た少年は口の端を上げる。

「ここはこういう空間なんだよ。理解した?」
「理解せざるを得なくなった」

 ローナフェレトは頷いた。
 現象は彼の常識の外にあったが、古代遺跡というものは、そもそもが異常なものなのだ。実感した以上、否定を続けるつもりはなかった。

「結構。理解してくれたところでもう一度言うが、ここは酷く単純な構造でね。すべてにおいてこの法則は適用される。死にたくないと思えば死なず、死にたいと思えば死ぬ。帰りたいと思えば帰れ、帰りたくないと思えば帰れない。この遺跡の本来の名は【箱庭の願望器】という。器の中は、願いが例外なく叶えられ、具現化される空間だ」

 少年はここで一度言葉をとめた。

「未だ帰れぬ君と僕。さて、ローナフェレト・ウェインリート・カレルファス。君は本当に帰りたいのかな」

 ローナフェレトは一瞬何を言われているのかわからなかった。理解した瞬間、自分でも理解できぬほどうろたえ、ただ目的を吐き出した。

「私は帰らなければならない」

 返って来た平坦な言葉に、少年は肩をすくめる。
 その顔に浮かぶのは、呆れの色だった。彼はどこからともなく黒い表紙の名簿を取り出し、パラパラとめくる。

「カレルの地ウェインリート家の三男……えっと、公用の名前はロナレート? 公人としての君の意見を聞いているんじゃないんだよ。ローナフェレトというただの一個人の君としてはどうなんだよって聞いているんだ。帰らねばならない。と帰りたい。は近いようで全く違うんだから」
「違う、のか……?」
「前者は使命あるいは義務感で、後者は欲求だよ。ここで必要なものは欲求だね。まあ、帰れないなら君もここで人形になる運命だ。君は十八歳だし、高卒新入社員って設定がぴったりかな。まあここには仕事なんてないけどね。取引先がそもそも存在しないしさ。タカネの奴片手落ちだよな」

 少年はベラベラと喋った後、ふと表情を変えた。

「気をつけなよ、ローナフェレト。最下階に確かに出口はあるけれど、帰りたくないと思っていたら出られなくなっちゃうよ。僕みたいにさ」

 少年の表情は酷く優しく、哀しく、真摯で、それを見たローナフェレトは悟った。
 彼は、この言葉を伝えるために、現れたのだ。

2013.11.30.up

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