闇夜のカデンツァ【怪しいランプ】003
イサークの最後の言葉に従って、学生街西地区にやってきたサミは、震える手のひらで額をおさえた。
人が、人が、人が――そう、人が多すぎるのだ。
そう広くもない道にひしめき合い、行き交う人を眺めていると、ふっと意識が遠くなりかけた。慌てて視線を地面に向ける。握りしめた手のひらの冷たさが、自分でもわかる。
人見知りからくる体調不良、いや、この場合人酔いというべきだろうか。
こんな体たらくで、お店にたどり着けるのだろうか。
非常に不安になってきたサミだったが、これは仕事。そしてイサークを助けなければならない。
萎える心を叱咤し、気合いを入れなおしたサミは、人の流れに身を投じた。
◆
店は見つからなかった。
イサークの言葉が間違っていたのだろうか、それとも自分が思い違いをしているのか。サミは衣嚢から住所のメモを取り出そうとするが、眩暈のせいでそれすらもおぼつかない。
朦朧とする意識の中、自分が今どこに向かって歩いているかわからなくなってしまったサミは、ただ機械的に足を踏み出していた。
認識できているのは、最早己の浅く短い呼吸音だけかもしれない。
「魔王さん、どうなさいましたか?」
そんな折かけられた声に、サミの意識が少しはっきりする。
相手が誰だかわからないままに、気力を振り絞り視線をやると、そこにいたのは隣人の少女だった。
彼女の灰色の瞳が、ひどく心配そうにサミに向けられている。
対して関わりもない相手だというのに、少女が本気で心配してくれているのが見て取れて、サミの体から緊張が抜けた。
「クレスタさんこんにちは。用事があって出てきたんですが、迷子になってしまった上に、あまりにも人が多くて……」
蚊の鳴くような声は徐々に小さくなり、『体調を崩してしまった』と肝心の部分が掠れてしまう。
しかし、彼女――アレイス・フローリア・クレスタという名の少女はちゃんと聞き取ってくれたようだ。サミの顔や手を順番に眺め、深刻な表情を向けてくる。
「随分具合が悪そうです。急ぎでないなら、少し休んだ方がいいです」
彼女の言葉は正しい。確かに、これ以上は動けそうにない。サミは己の限界を認めうなずいた。
そこからはなし崩しに事が進んだ。
アレイスにより道の脇の診療所に押し込まれたサミは、問答無用で長椅子に座らされた。ここには人の気配はごくわずかしかない。静けさに満ちた空間が優しかった。
ようやく得られた休息にほっとして、サミは目を閉じて回復に努める。
がらんとした空間に消毒液のにおいが漂っている。遠くで、カチャカチャと金属とガラスの当たる音が聞こえる。椅子に接した足が、ひんやりと心地よい。閉じられた視覚以外の情報が、サミの思考をかすめていく。
「知り合いがそこで具合悪くしてたんだよ。この人、同じアパートの魔族の人で、名前は、えーと……」
サミがぼんやりとしている間、受付らしき女性とアレイスは慣れた様子で言葉を交わしていたが、患者――つまりサミの素性に至ったところで会話が途切れた。
空白から数秒遅れで、サミは一度もアレイスに名乗っていなかったことを思い出した。名前ではなく『魔王』と呼ばれることを不思議に思っていたが、何のことはない、自分のせいである。
「サミ・ロイヴァスです」
サミが告げると、息をのむような音がして、空気がゆらぐ。
不思議に思い目を開くと、アレイスがぎょっとした顔で振り向いていた。
彼女は目を閉じたサミが寝ていると思っていて、それで返事に驚いたのかもしれない。
「はい、ロイヴァスさんですねー。お住まいはアレイスちゃんの近所、と」
アレイスの驚きを気にも留めず、受付の女性はマイペースに仕事を続けている。
受付といくつか会話を交わした後、アレイスは長椅子にサミを寝かしつけた。
横になったことで、気力の限界を迎えていたサミは意識を保てなくなった。
◆
寝ていたのは十分ほどだと、サミの体内時計は告げていた。
実際、入り口から差し込む光は意識を失う前とほとんど変わっていない。
サミの隣に少女が座っていて、気遣わしげな瞳でサミを見ていた。
アレイスは、隣人であること以外に何の義理もないサミのことを、ずっと看病してくれていたようだ。
サミが目を覚ましたことに気づくと、少女は立ち上がり受付にそのことを告げた。
「すみません、すっかりご迷惑おかけしてしまって……」
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
少女が微かにほほ笑む。
笑顔をまともに受け止めたサミは、気恥ずかしくなり視線をそらした。すこし頬があつい。
優しすぎる対応に、サミは内心困惑した。彼女は本当に、今朝の、あのガラの悪い少女と同一人物なのだろうか。
「えーと、サミさん? ロイヴァスさん……それとも、魔王さんと呼んだほうがいいんでしょうか」
「サミで大丈夫です」
サミでもロイヴァスでも構わなかったが、魔王と呼ばれるのだけは嫌だったので、サミは無難なところを即答した。
呼称の確認後は体調についての質問や、サミが迷っていた理由に話題が移った。
「人に聞いちゃいけない事情などが無ければ、西地区内で僕が知ってる場所なら案内しますよ」
目的の場所にどうしても全くたどり着けなかったことをサミが漏らすと、アレイスが案内を申し出てくれた。
これ以上世話になることをサミは躊躇ったが、断ると一生たどり着けないかもしれない。通りから人が減らない限り、迷っている間にまた体調が悪くなることは想像に難くない。
そうなると、今までのアレイスの厚意が無駄になってしまう。
「じゃあ、お願いしてもいいですか……?」
衣嚢からメモを取り出し恐る恐る差し出す。受け取ったアレイスが文字列に目を通すと小さくうなずいた。どうやら、彼女が知っている場所だったようだ。
「この店、看板上げてない上に、初めての人は何故か絶対にたどり着けないんですよねえ」
◆
「本当にありがとうございました」
「いえいえ、このあたりで体調が悪くなったらいつでも来てね」
受付の女性に暇を告げると、サミ用の真新しい受診券を渡された。このあたりに来るなら、確かにお世話になりそうなので、サミは恭しく受け取った。
「ちなみにその券、自力で動けない時は、魔力を充てると施設の人が迎えに来てくれますよ。出張費とられますけど」
通りを先導しながら、アレイスが教えてくれる。
サミがカードに目を凝らすと、確かに少量の魔力が感じられた。目視でも通信系の【刻印式魔法陣】だということはわかる。
サミがカードに気を取られている間も、アレイスはサミの手を引き歩きつづけた。
「サミさん、つきましたよ」
「え、もうですか?」
サミは衣嚢に受診券を突っ込み、慌てて顔を上げた。
サミが一人でさまよっていた時には、何もなかった場所に、こじんまりとした商店が建っている。
「この辺り、何度も探したんですが……」
メモした住所通りの場所である。探さないわけがなかった。
自分の喉から空気が漏れる奇妙な音がする。胸の中で渦巻く感情が驚きなのか悔しさなのか、あるいはむなしさなのか、サミ自身にも区別がつかなかった。
アレイスが遠い目をする。
「初めての人は何故か絶対に見つけられないんですよねえ。二回目以降は簡単に見つかるのに」
「何らかの魔術がかかっているのかもしれないですね……」
そうして疑ってかかると、店を覆い隠すようにうっすらと靄のようなものが見える。
気づいてしまえば割と露骨だった。サミの体調が万全なら、最初から気づけたのかもしれない。
しかし、人込みの中でその条件を満たすことが、サミにとって困難であることは確かだった。今回元気なままたどり着けたのは、アレイスが受診券の説明でサミの気を逸らせてくれたからだ。
「それじゃあ、僕はそろそろこの辺で」
笑顔で小さく手を振るアレイスに、サミは深く頭を下げて返した。
「はい、ありがとうございました」