プロローグ【魔王が引っ越してきた。】001
僕が住んでるボロアパートに、魔王が引っ越してくる……らしい。
何を言っているのかわからないと思われるかもしれないが、魔王の引っ越し自体は、ここ魔術王国首都ラフェルタではよくあることである。
そう、魔族の都ラフェルタには、それなりの数の魔王が存在するのだ。
念のために説明しとくと、魔王というのはこの国の王のことではない。どえらい功績を立てた魔族に送られる称号である。
いくらなんでも国王陛下が越されてきたなら、僕もこんなのんきにぼやいてはいない。うっかり不敬を働いて木っ端微塵にされる前に、さっさと引越しを検討している。
僕のような他国の山奥からやってきた、ごく普通の人間の女が権力の理不尽から身を守るには、それそのものに近寄らないのが一番だ。
新聞の紙面に僕の名前――アレイス・F・クレスタの文字が踊るのは、過去の一度だけで十分である。
さて、魔王の引越しはよくあること、と先述したが、僕はこの事態に途方もなく驚いていた。
そりゃ、魔王とて普通の魔族である。そして魔族というものは生物的には人間とは区別される存在だが、もともと人間から発生した種族だけあって、社会意識や生活習慣は人間と大して変わりない。
生活の都合に合わせて、引越しでもなんでもするのは当然だ。
問題はここが『ボロアパート』であることなのだ。
ちょっとやそっとのボロさではない。雨漏りなど当たり前、壁に穴があき、たまに床を踏み抜くこともあるという、脅威のボロさである。
おまけに住人の質もよろしくない。ちょっと騒ぐと階下から罵声が飛んでくるし、壁が余りにも薄いので隣家の物音は筒抜けだ。
つい最近まで四軒隣の吟遊詩人見習の楽器の音が一日中五月蝿かった。大家に訴えたら断末魔の悲鳴の後は何も聞こえなくなったが。
そういう僕も割とやかましい方なので、そのうち吟遊詩人の後を追うかもしれない。名も知らぬ詩人よ、地獄で会おう。
と、微妙に脱線したが、このような有様なので、当然家賃は大層安い。正直このボロ部屋の利点はそこしかない。
そんなろくでもないアパートに暮らす僕の隣室に突如現れた表札、それが『魔王』である。
普通、魔王様はこんなところに居を構えたりはしない。
彼らは大抵お金持ちであるし、お偉いさんになってしまったからにはそれなりに外面を取り繕う義務もある。
逆に何らかの理由によって隠棲する場合、こんな誰でも入ってこられるただのアパートになど引っ越してくるわけがない。
ということで、こんなところに居を構えることした隣室の魔王は、普通ではないはずである。
理解できないものは恐ろしく、なんとなく嫌な予感がする。というのが、まだ見ぬ魔王に対する僕の感想であった。
◆
隣家の表札に気づいてから、三日が平穏に過ぎていった。
昼は学生として魔術の修行をしながら、本業の薬師としての仕事も行い、夜は臨時雇い研究員として過ごす。
そんな僕の日常は忙しなく、平穏とは程遠いが、少なくとも魔王の件に関しては平穏だった。
というよりも、何も始まっていないのだ。
魔王はまだ引っ越してきてもいない。
やはり別の場所に考え直したのでは。と思ったりもしたが、表札は今日もかかったままだった。
夕刻、僕は魔法薬について思索をしていた。
試作ではなく、思索である。何を触媒にし、どんな魔術を込めるのか。その明確な構成を定める前の、概略図作成に近い作業だ。
特に覚書を取るでもなく、延々と思考の海を泳いでる僕の姿は、きっと周囲から見るとただのぼんやりしてる緊張感の無い女に見えることだろう。
以前所属している薬師組合(通称)に薬を納品に行った時、同じ作業をしている人間を見たことがある。
その姿は正に舟をこいでいるだらしないおっさんそのものだった。
笑えないのは、この作業中本当に眠くなってくることである。
今もこうしていると、現の境界がどこか曖昧になって、意識が遠く、遠く――。
夕方の鐘が鳴った。
その音で、僕の意識は一時的に浮上する。
「あ、ぶなかった……」
なんとか眠らずにすんだが、頭も体も半分以上が眠ったままだった。
僕はぼんやりした頭で考えた。この魔法薬作りは急ぎの仕事ではない。そして、夜の研究が始まるまでは数時間余裕がある。いっそ寝てしまってもよかったような気がする。
……よし寝よう。
即断である。
僕は部屋の隅の寝台に倒れこんだ。布団が固くて痛いが別にそんなことはどうでもいい。
あっという間に意識が沈んでいく。
睡眠に落ちる瞬間が僕は好きだ。ぷっつりと意識が途切れるのがいい。
しかし、そんな僕の至福の瞬間は控え目なノックの音で壊されてしまった。
本当にかすかな、何か用事をしていたら聴こえないほどの小さな音だ。
眠りの瞬間、神経が鋭敏になってなきゃ、気付けなかっただろう。
「はいー?」
反射的に返事してから数十秒。眠気を抑えながら待ったが、訪問者の反応は無い。
「……ったく誰だよ。ちょっとまって」
扉の向こうに声をかけながら身を起こす。
僕は激しく後悔していた。返事などせず無視して寝ればよかった。居留守を使えばよかった。
知人なら、重要な用事があるなら扉を蹴破ってでも入ってきただろうし、知人でなければきっと新聞の勧誘だ。
新聞はお断りだ。研究室でただ読みできるし、実を言うと契約する金もない。まあ、こんなに自己主張の弱い新聞の勧誘員もいないだろうが。僕が新聞の営業所長なら三日でクビだ。
僕は眠りを邪魔されて不機嫌だったが、そんなことを表情に出さないように気合を入れ、笑顔を浮かべる。
所謂営業スマイルってやつだよ。
あれ? 僕が営業してどうするんだろう。営業するのは新聞の勧誘員の方だよなあ。そもそも勧誘員じゃないんだっけ?
まだ眠気の残る僕の思考は随分あやしかった。
「はーい? 新聞なら間に合ってますよ?」
訪問者が新聞の勧誘員だった場合を想定し、牽制しながら扉を開けると、そこには黒髪の青年が立っていた。
見たことのない顔だ。
軽く切りそろえた短髪に、清潔感あふれた淡い色の長衣を着ている、姿勢のよい男である。
しかし、爽やかな第一印象を裏切る仄かな陰のようなものも感じた。全体的に薄幸そうな雰囲気が漂っているのだ。
主に、表情が原因だろうか。どこか弱弱しい笑顔。眉が困ったように下がっている。本来の形はピシッと凛々しそうなのになあ。
「……あ、あの。隣に引越ししてきました。それで、その挨拶に」
観察で上の空になってた僕を正気に引き戻したのは、青年の声だった。
外見どおり、声もどこか控えめな感じな様子で覇気がない。紫の瞳は不安げに彷徨っている。
しかし、なるほど。内心手を打つ。隣に引越ししてきたということは、この人が魔王なのか。
ううむ、それにしても意外な感じだ。
【夜の精霊の愛し子】という異名を持つ魔族には、正に夜の属性をその身に映した物静かな者が多いが、魔王の称号を持つ彼は、特に内気な性格に思える。
伝説に語られる数多の魔王達は、魔族の特徴を裏切り、強烈な――言いかえれば攻撃的な性格の持ち主ばかりである。
気弱げな彼は、逆に魔王としては個性的なのかもしれない。
あんまりじろじろと観察するのも失礼にあたるので、僕も軽く挨拶することにした。
「どうも、三〇二号室のクレスタです。よろしく。……魔王さんですか?」
隣の表札を見ながら尋ねてみると、青年は「ええ」と小さく頷いた。
肯定の声は、やはり自信なげに揺れている。
さて、魔王というのはどえらい功績を立てた魔族のことである。そして、身体能力や魔術に優れる魔族が立てる功績とは、その大半が武功であるのが現実だ。
この気弱げな人が一体どんな功績を立てたというのだろう。
そんな好奇心が浮かんできたが、初対面で聞くようなことでもないので、それはおさえる。
僕がこっそり詮索していることに、魔王は全く気づいた様子がなかった。
少しだけ表情を明るくし、彼は少し照れくさそうに呟く。
「それにしても、クレスタさんには気づいてもらえてよかったです。向こうのお隣にも挨拶に伺ったんですが、ドアを叩いても気づいてくれなくて」
「ああ、ここの住人は皆図太いから、ドアを全力でスカーンと殴るくらいじゃないと気づいてくれないですよ」
「ぜ、全力で、ですか……?」
魔王はすっと青ざめた。
どうやら、扉を殴りつけるというのが、彼にとっては衝撃だったらしい。
うわあ、失敗した。他所からきた普通の人に、このアパート基準でものを言ってはいけなかったのだ。
知人連中が、殴ろうが爆発しようが全く動じない奴ばかりだから、ついうっかりやらかしてしまった。
「はは……、冗談ですって。でも、真面目な話、皆人付き合い悪いから。気にしないほうがいいですよ」
僕は元気付けるように愛想笑いを浮かべた。
ここに住んで二年が経つ。住人の顔はかなり入れ替わったが、挨拶をしにきてくれた入居者とは初遭遇だ。
つまり僕は、初めて常識人のご近所さんが出来そうなのが嬉しくて、柄にもなく、親切に振舞ってみようとしているのだ。
「困ったことがあれば、いつでもお声かけてくださいね」
人付き合いの参考書に載っている、定石どおりの言葉だが、割と本心から出た言葉である。
邪念がこもっていないことが功を奏したのか、魔王は喜んでくれたようだ。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いしますね」
僕に小さな包みを渡し、魔王は笑った。
儚げな、幸せが逃げていきそうな笑顔だった。
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします」
僕も笑い返すと、魔王はへこりと頭を下げた。
「では、失礼します」
魔王の手で閉められたドアは、音も立たない。
そっとやってきて、そっと去っていく。
魔王はそよ風のような人であった。
◆
僕が住んでるボロアパートに魔王が引っ越してきた。
こんな所を選ぶような魔王だし、どんなもんかと不安であったが、少し気弱げだが礼儀正しい好人物であった。あの人なら適度な距離感を保ち、フツーのご近所付き合いが出来そうだ。
アレイス・F・クレスタは、まともなご近所さんを一人手に入れた。そんな言葉が脳裏に閃き、幻のファンファーレが鳴り響く。
というかよ、本当まともなご近所さんゲットなんて始めての体験だわ……。
故郷の山だと、そもそもご近所という概念すらなかったしな。
魔王から受け取った包みの中身は乾麺だった。
「何故、麺?」
魔族内の風習かなにかだろうか。良くわからなかったが、とりあえず晩御飯に美味しく頂いておいた。