月の無い夜、エルタは部屋の窓から空を見上げる。
月明かりが無いせいか、晴れた夜空には星が良く目立っている。
いつも見ていたもの。でも、いつもと違うのは、隣にループ・シィがいないことだ。
エルタがそれをぼんやりと眺めていると、一瞬光が流れ、消えた。
彼は、旅立ちを決めた日のことを思い出し、屋内のエディシア・ルーを振り返った。
「たとえば、星に願いを掛けたとして、その願いは叶うと思うか?」
エルタの問いに、エディシア・ルーは首を傾げた。
目は口ほどにものを言うというが、彼女の表情は正に『何を言っているのかわからない』と告げている。そこにあるのは困惑一色だ。
ループ・シィはその質問をぶつけられた時、思いっきり表情をゆがめ、呆れていた。
エディシア・ルーの反応がループ・シィとは根本的に違うものであることに、エルタは少しだけほっとした。
ほっとするエルタをじっと見ていたエディシア・ルーが、その問いに答えを返すことは無かった。
彼女が代わりに口にした言葉は、問いかけだった。
「ねえ、ループ・シィは不幸だったと思う?」
エルタは表情を歪める。
「……それを聞くのか? 不幸だと思われていたら、立つ瀬がないんだが」
言い返した言葉は反論ではなく、彼の願望だ。
確かに、旅は現実逃避と紙一重であった。目的などあって無きようなものだった。意味のない旅に、ループを連れまわしたのだと言われればエルタには反論できない。
エディシア・ルーにたどり着けたことなど、偶然の産物。上手くいったというのは、結果論に過ぎないのだ。
しかし、あの旅の時間がたとえ無駄であったのだとしても、ループ・シィが不幸であったとエルタは思いたくなかった。彼にとってそれは、小さな幸いを孕んだ大切な時間だったからだ。
しかし、エルタがどう思ったところで、ループ・シィ自身があの旅をどう思っていたかなど、本人にしかわからない。
所詮他人であるエルタには、理解できるはずも無いことなのだ。
「ループが消えた以上、答えなど存在しない問いかけね」
口の端を持ち上げるエディシア・ルーの言葉は正しい。
彼女はその問いに答えが無いこなど最初から知っていた。それでいてその質問を投げかけたのは、その言葉がエルタにとって凶器となることを知っていたからだ。
「お前は最悪な性格だな。ループがいる時は猫を被っていたと今気付いた」
「気付くのが遅いわね、エルタ。女の外面を信用してはいけないことを学びなさい」
「……もしかして、怒っているのか?」
「ばかげた質問のこと? それともはじめて会った時、ボロクソに詰られた事? 後者なら、正直言ってあなたに罵られて心が楽になったわ。ずっと誰かに責められたかった」
笑みを深めたエディシア・ルーの面に、作為の色は無い。そこにあるのはただ、後悔の色だけだ。
やさしげな保護者の顔も、辛辣な女の顔もフェイクだとエルタは思う。
エディシア・ルーの本質は自虐だ。それは彼女に抱いた最初の印象と、さして違いの無い結論だった。
エルタは、彼女に掛けられた、答えの無い質問のもう一つの答えをようやく理解した。
「……不幸だったのはエディシア・ルーだな」
罪悪感に縛られた数年。それはきっと地獄のようなものだったのだろう。
答えを口にしたエルタに対し、エディシア・ルーは応えない。
その反応が、エルタの答えが正答であることを示している。
エディシア・ルーは、浮かべていた笑みを消した。
「叶わないとわかっていても、縋りたくなることはあるかもしれないわね」
それは、先のエルタの問いへの答えだった。
「全く、ループがいないとあなたとは喧嘩ばかりね」
「そうだな。エディシア・ルーとは根本的に気が合わない」
二人は、険悪な会話の余韻など忘れたように笑い合った。
エディシア・ルーと自分の間にわだかまるもの。それは近親憎悪のようなものだろうとエルタは思う。
エルタとエディシア・ルーは、結局のところよく似ているのだ。特に、旅に出る前のエルタとは。
それでいて、最大の差異が『ループを捨てたこと』と『ループを拾ったこと』なのだから、仲良くなどできるはずもない。
「最後に確認しておくわね。ループ・シィは人間ですか?」
「精神は人間であり、肉体は精霊だ。両方の特性を兼ねそろえた存在が、ループ・シィだ」
ループ・シィは作られた精霊である。
そのことを否定するつもりなどエルタには無い。
しかし、エルタはこうも思っていた。『人間が人間であるために必要なものは、ヒトの精神だ。ヒトの精神を持つループ・シィは紛うことなき人間である』と。
矛盾しているが、その矛盾を正すつもりも彼には無かった。
エルタの答えに、エディシア・ルーは小さく頷く。
「さっさと行きなさいエルタ。そして必ず見つけなさい。あなたにならループ・シィが見えるでしょう」
「あたりまえだ」
エディシア・ルーの言葉に背中を押され、エルタは家の扉をあけた。
夜気がエルタを包み、その冷たさにエルタは小さく震える。
後ろ手に扉を閉めると、部屋の明かりが遮断され、世界が完全な闇に染まった。
エディシア・ルーの対処法とは、実験途中で破棄された不完全な精霊であるループ・シィを完全な精霊に進化させるというものだ。
今まで発現することはなかったが、満ち欠けを繰り返す月の精霊を模して作られたループ・シィは、本来消滅と再生の特性を持っている。エルタとループ・シィが暇だ暇だと過ごした時間、エディシア・ルーはこの進化作業にかかりきりだった。
消滅と再生の特性を発現できるか、という部分がこの対処法の根幹だ。
設定された寿命設定を消滅の特性と関連付けする。これで、ループの死は月の精霊としての消滅と同質の物になる。そして、再生時に寿命に関する設定を消去する。再構成された完全な精霊というものには寿命というものが無いが、消しておくに越したことが無い。
以上がループが消えた後、エルタがエディシア・ルーから教えられた内容だった。
ループ・シィの再生時、エルタの呼びかけが必要だとエディシア・ルーは言った。
元々不完全な精霊だったループ・シィの存在を固定するには、最も近しい人間が見つけてやらなければいけないと。
闇に目がなれたエルタは、昼間ループ・シィが消えた場所に移動し、地面をみつめた。
勿論そこには何も無い。
エルタは目を閉じた。
瞼の裏に、昼間見たループ・シィの姿が映る。
ループ・シィが不幸だったか。その答えはエルタには出せない。
けれど、ループ・シィは、今日エルタに別の答えを告げていた。そんな気がした。
消える直前、あの時彼女は笑っていた。ループ・シィは笑ってエルタに『ありがとう』と言ったのだ。
不幸だったかどうかなんて知らない。知らなくてもいい。
あの瞬間、ループ・シィは自身を幸せだと思っていた。幸せに笑っていた。それが答えだ。
「……答えが、見えた」
瞼の裏に見えた、ループの笑顔をエルタは信じた。
むしろ、今まで信じていなかった自分が不思議だ。
どうやら、想像以上にループ消滅の事実に参っていたらしい。おまけにエディシア・ルーの言葉に引きずられたと、エルタは苦く笑う。
瞳を開いたエルタがもう一度空を見上げると、そこには月があった。
薄っすらと細い糸のような月。
「ループ。今日は新月ではない。出てこなければ泣いてやる」
エルタが夜闇に語りかけると、
「それは、ちょっと見てみたいかもしれない。けど本当に泣かれると困るな」
楽しげな誰かの声が聞こえた。
昼と同じように、木の下に座ったエルタは憮然と呟いた。
「見なければいけなかったのは、姿ではなく気持ちか」
「何が……?」
結局、エディシア・ルーは全部わかっていたということらしい。彼女に揺さぶりを掛けられなければ、エルタはループ・シィを助けたいと自分の気持ちを募らせるだけで、ループが昼間見せた答えを忘れてしまったままだっただろう。
そしてその状態のままではきっと、エルタの声にループは応えられなかった。
生きたところで、その幸せを信じてくれない相手に、応えられるはずもない。エルタはしみじみとそう思う。
幸せだったか、ではなく、不幸だったかと問うたことは、エディシア・ルーなりの精一杯の嫌がらせだったのかもしれない。何にせよ、彼女はエルタを信じていたということだ。
「そういや、昼間聞こうとして聞きそびれた。ループが誰でも彼でも愛称で呼ぶのは、エディシア・ルーの教育なのか?」
「うん、確かそのはずだよ」
出会った日、エルタが名前を教えた瞬間、『よろしくエルタ』と返したループ・シィ。
ループが自己を確立させる前に離れていったエディシア・ルーも、同じように愛称で呼ばれているのを見て、ようやくエルタはその習慣のルーツを知ることとなった。
エディシア・ルーは離れる前に、ループにこの概念を刷り込んでいたのだ。
「実は、エディシア・ルーのことを恨んでいる」
「……なんで?」
正直な話、エルタはエディシア・ルーへの悪感情など掃いて捨てるほど持っているわけだが、この流れでそのことを持ち出す理由が、ループ・シィには理解できなかったらしい。
「エディシア・ルーが余計な教育をしたせいで、一度もループに本名で呼んでもらったことが無い」
頬を膨らませて拗ねるエルタに、ループがふきだした。
「そ、その表情久しぶりに見たよ」
肩を震わせ笑うループは、ひとしきり笑った後、笑みの種類を変えた。
静かでいながらも、感情が溢れる笑顔だった。
昼間見せたものと同じそれは、幸せと表現するに値するものだ。
「今までありがとう、これからもよろしくね。エルトアーク」
「こちらこそよろしく。ループ・シィ」
窓から、エルタの様子を見ていたエディシア・ルーは、一つの夢が終ったことを知った。
「おつかれさま。ループ、エルタ」
窓を離れ、椅子に座り込んだ彼女は、ループ・シィの笑顔を思い返す。
彼女は自分達が見た、身勝手な夢が生んだ子供だ。
精霊は人とは全く思考が異なる。人はそんな精霊の力に焦がれ欲していた。その力を自由に操るために人工の精霊を作り、人間の精神を植えつける実験がはじまった。精神が同じであれば、コミュニケーション……いや、コントロールできるはずだからだ。あの実験はそんな身勝手な夢だった。
「上手くいくはずなんて無かったんだわ。人の心を持つように作りながら、私たちは彼らを人間として扱っていなかったのだから」
心が育たず廃棄されていった人工の精霊達。
ループ・シィと同時期に作られた精霊達は、たとえ実験中止後の廃棄から逃れられたとしても、今頃消滅しているはずだ。
彼らもきっと、導くものがいたならばループ・シィのように育ったはずだ。
消えなかったループとて、全てが安泰というわけではない。彼女の進化は突貫工事だ。
エルタには言っていないが、今後定期的に訪れる精霊の満ち欠け。再生には必ず『見ることができる』人が必要なのだ。
心が通い合う人がいなければ結局消滅してしまう残酷な事実。でも、ある意味それは人の心を持つ精霊にとって救いなのかもしれない、と思わないでもなかった。永遠を得るのは、きっと人の心をもつ存在にとっては辛い。
何にせよ、エディシア・ルーがそう思うのはエゴだ。
そんな風に、不自然に生きなければいけない者を作り出したのは、彼女達自身だったからだ。
もう一度窓の方を見たエディシア・ルーは、幸いが続くことを、流れない星に願った。
(2010.1.12)