世界の西端とされるリコリス岬。
海は何処までも続き、空の青ととけ合っていた。見つめていると果てのない海の中に魂が吸い込まれていくような錯覚を覚え、マグノリアは息をのんだ。
「この海に果てはあるのですか」
マグノリアが波止場で釣り糸を垂らす青年に尋ねると、
「海の果ては知らない。そこは世界の果てだ」
彼はマグノリアを見ずに応えを返した。
「海に果てはあるのか。お前と同じことを言って海に出掛けて帰らなかった人達がいる。彼らは海の果てではなく、次の世界に辿り着いた」
「次の世界?」
西方訛りの強い青年は、空と海の境目を指差し、マグノリアの知らない異国の言葉を呟いた。
「れぁりぃえすゆまー。彼らはつまり死んだ。これは死者を送り出す言葉。今の言葉だと、よき空への航海を、というのが一番近い」
なるほど、とマグノリアは理解した。海の果てに死者の世界ではなく現世の続きを望み確かめようとした人々は、結局世界の果てにはたどり着けず、黄泉の世界に旅立った。 そしてここ、西端の人々の生と死の境目は、水平線。つまりは空と海の境界なのだ。
「お前も逝くなら船をやるが」
青年は岸に繋げた小舟を指し示して囁いた。
旅立つ人々は己から世界を渡る勇敢な者達なので、尊敬し、出来る限りの援助をするのが慣わしだという。
「僕はまだ、世界を渡るつもりはありませんもので」
マグノリアが断ると、青年は意外そうに小首を傾げた。
「そうなのか?お前は、次の世界に焦がれ、海の果てを信じずにそれでも旅立った者達に似ているが」
「……」
海と空の色が混ざり合った瞳にいぬかれて、マグノリアは言葉を失った。青年の言葉に心当たりが無いわけでもなかったのだ。記憶の一端を鷲掴みにされたようで、全身の血の気が引くのがわかった。
「自覚はあるのだろう?」
心を揺らされたマグノリアはしばし立ち尽くしていたが、やがて口を開く。出てきたのは半分の肯定と、半分の否定で、
「似ていたのは、昔の僕だと思いますよ」
そう言いきって、笑みを浮かべた。無理はしていない。偽ってもいない。居なくなった人達の所にいきたかったのは、本当で、でもずっと前の話なのだ。
今はもう、後ろを振り返りながらでも、ちゃんと前に進んでいけると思っている。
マグノリアの言葉を聞いた青年は、ずっと無表情に近かった顔に、初めて露骨な感情の色をのぼらせた。眉を下げたそれは、寂しさを多分に孕んでいた。
「お前なら一緒に来てくれそうだと、思ったんだがな」
声だけ残して、青年の姿が空気に溶ける。驚き、硬直するマグノリアの眼前で、彼は一瞬で消滅していた。
釣り道具も、繋がれた小舟も同じように消えていた。青年がいた痕跡はもはやどこにもなく、誰もいない岬にマグノリアだけが立ち尽くしていた。
宿に帰り、岬での出来事を語ると、宿の主人は眉根を寄せてうなった。
「あんた、レ・アリエス・ユマーに会ったのか」
発音こそ少し違うが、それはあの青年が歌うように呟いた言葉と同じ言葉だった。
「結局それって何なんですか」
尋ねると、宿屋の男は昔話を教えてくれた。
昔、一人の男が海の果てを夢見て、船を造り冒険に繰り出した。男は半月後、潮に流され還ってきた。次の世界に旅立っていた男は丁重に葬られたが、以後、夢に燃えるものや、反対に次の世界への逃避願望を抱く者達を海に引きずり込み次の世界に送り込む亡霊が出るようになった。
夢半ばで命を落としたその青年の名を、レ・アリエス・ユマーという。
「ただの伝説だとおもっていたんだがなあ」
宿の主人は驚きを隠せないといった様子で、窓の外――海の方角を見る。
「よき空への航海を。あの青年はその名の意味をそう言ってました」
「そうなのか。もうこのあたりでは、当時の言葉は残っていなくてなあ」
夢半ばで果てた男。もしかすると、過去の人がその死を悼み、祈りの言葉を送るうちに、後世で彼自身の名とすり替わっていったのだろうか。
そんな話を主人としたが、結局の所、ただの空想だ。
真実を知るのは、あの寂しい顔で消えた青年だけだろう。
(君の魂が、いつかあの境界に辿り着ける日は来るのでしょうか)
水平線を想いながら、マグノリアは「レ・アリエス・ユマー」と呟いた。宿の主人はそんなマグノリアの意図を理解してくれたのだろう。彼もまた、同じ言葉を海に捧げた。
(2012年08月04日)